2013年03月29日

源頼朝の兄弟 長男「義平」その2

義平は15歳の時、久寿2年(1155)に起きた大蔵合戦で叔父 源義賢を殺し有名になり
悪源太義平 」の名で多くの伝説に描かれ全国各地に伝わっている。
しかしこの「叔父殺し」にもいくつかの説があり、
ついでなので分かっている限りの事は、書いておきたい。

武蔵国に秩父重綱という男が居た、彼には長男 重弘と次男 重隆という息子が居たが
家督を継いだのは次男の重隆だった。その重隆の娘婿となったのが義朝の弟 源義賢だった。
一方、家督を継がなかった長男 重弘には重能という長男がいた。
畠山氏の祖で畠山重能と名乗っていた。
 ※畠山重能・・・のちに頼朝の右腕として使える畠山重忠の父。
  武蔵国大里郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市)

また 秩父重綱には後妻が居たが次男の重隆が家督を継いだ事に不満を抱いていた。
この後妻は源義平の乳母だった。乳母と言っても乳を飲ませるだけが役割ではない。
この時代の乳母は育て母であり産みの母より深い関係を持った。義平の育ての母だ。
その二人、義平の乳母と畠山重能、そして新田氏などが手を組み 秩父重隆と対立していたのだ。
そして大蔵合戦が起きた。
 義平は乳母の為、そして京に戻った父 義朝の代わりに戦ったのだろう。
この時、叔父 義賢は家督を継ぐ者として源氏に先祖代々伝わる刀を与えられ持っていたが、
それを義朝の命令で義平が持ち去った事から
源氏の家督を継ぐために義朝が息子 義平に命じて叔父を殺させたと伝えられたり、
おまけに罪のない秩父重賢まで序でに殺したかの様に言われたりしている。また一方では
この戦に義平は「参加していない」「向かってはいたが間に合わなかった。」などとも言われ、
何をどこまで信じたら良いのかさっぱり分からない。
 また「悪源太義平」の「悪」とは「強い」という意味に使われる言葉だったそうで「悪い」という意味では無いとの事だ。
 更に余談だが、この時 敗れた義賢には2歳の息子がいた・・・。
密かに斎藤実盛が連れ出し木曽の地に逃がした。のちの木曽義仲の事だ。

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2013年03月22日

源頼朝の兄弟 長男「義平」

ところで、先ほど少しだけ触れたが
源頼朝が9人兄弟の3番目だった事を貴方は知っていただろうか?
源頼朝に義経という弟がいる事は知っていても、
頼朝が3男、義経が9男だった事は殆ど知られていない。
 では何故、二人だけが有名なのか?他の兄弟はどうしたのか?
気になる貴方の為に、ここで頼朝の兄弟、特に二人の兄について少し触れておこう。

源頼朝には2人の兄がいる・・・2人とも腹違いだ。
先ず源頼朝の兄、長男 源義平(よしひら)だが、
義平は、永冶元年(1144)年に産まれ、頼朝より7歳年上で。
イメージとしては体格も態度もデカイ!
短気で行動派だが武骨で品が無く乱暴者。ドラえもんに出て来るジャイアンってところだ。
あくまでもイメージだが血液型はO型で、おおらかで大胆なのが長所で、
繊細さに欠けるところが短所。
ちょっとした油断が命取りになるタイプを想像している。
母は橋本御前 鎌倉の三浦義明の娘・・・・しかしこの娘は養女だと言う説が一般的で、
京都郊外の橋本の遊女だったとか・・・越前足羽の豪族 林光成の娘だったとか・・・。
京都堀川の源氏館で育った義平は13歳の時、鎌倉へ行き 祖父 三浦義明の元で暮らした。
父 義朝が17歳で京都郊外 橋本の遊女に産ませた子どもで、それなりの環境で育てるために遊女ごと三浦義明が養父となったなんて事もあり得る話だ。
ちょっと気になるのは義平が京都から鎌倉へ行った13歳の頃は、義朝と常盤の間に一人目の子今若が生れた頃で、義平が母親ごと遠くに追いやられたのでは無ければいいが、と思ったりする。
偶然に元服と重なっただけかも知れない。
当時、関東での義朝の活躍ぶりはめざましかったから、せっかく拡大した勢力を義平に託す思いであったかも知れない。
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2013年03月15日

源頼朝の初陣「平治の乱」その2

美濃に向かう途中、三男 頼朝は馬上で居眠りをしてしまう。
初陣で疲れてしまった12歳の頼朝に父は何度か注意するが、あまり強くは叱らない。
その様子を兄 義平は見ていた。
おそらく、こんな風に思いながら・・・
「父は何故、長男の私には厳しく当たるのに、頼朝には甘いのか?
 父は、私よりも頼朝が可愛いと思われる。目に余る。
 私はこんなに頑張っているのに・・・・・このままでは、頼朝が嫡子・・・。
 馬上で居眠りする様な者が嫡子とは・・・・嘆かれる。いっそ、居なくなればいいものを・・・。」と。
そして頼朝は本当に行方不明になってしまった。
父 義朝は 家来に命じ必死で探したが、見付ける事は出来ず。
必死の父 義朝 の様子を見て義平は気に入らなかったのではないだろうか?
心のどこかで義平は頼朝が居なくなった事を喜んでいたのではないかと想像してしまう。
父 義朝に自分の存在を認めてもらうチャンス到来なのだから。
 頼朝以外の一行は無事に美濃 青墓の宿に到着した。
そしてこの地から、それぞれ別の旅がスタートする。
その運命の旅の結末は、もう既に見えていた。
世の中の誰もが「 悲運 」でしかない事を知っていた。
それは義朝本人にも もう分かっていた事だが「もう終わりだ」とは言い出せなかったのだろう。
嫡男 頼朝と逸れた事も義朝には大打撃だったはずだ・・・「生きていて欲しい」と思う反面、たった13歳の子が生き延びられるはずがないと覚悟をしていたはずだ。
しかし、この悲運の旅に、ただ一つだけ幸運があったとするなら、
それは頼朝が一行から逸れた事だろう。
父 義朝が思うより遥かに頼朝は強運の持ち主であったからだ。
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2013年03月08日

源頼朝の初陣「平治の乱」その1

源氏と平氏は平治元年( 1159 ) 「 平治の乱 」で戦い、そして源氏は敗退した。
当時36歳だった源義朝には9人の息子が居て、
長男 義平(19) 次男 朝長(15) 三男 頼朝(12)・・・・・・と続き
9男 義経に至っては 0歳 の赤ん坊だった。
赤ん坊や小学生を戦に連れて行っても仕方ないので、この平治の乱で父義朝と共に戦ったのは
長男 義平(19) 次男 朝長(15) 三男 頼朝(12)の3人のみだ。
頼朝には12歳での初陣となったが、父や兄達と共に命からがら都を逃れ、
美濃国 青墓に向かっていた。
どうして美濃だったのか・・・源義朝は、若くしてうだつの上がらない父 為義の元を離れ、
先祖が坂東武者として活躍した関東で豪族同士の争いに参加し、
自らの力で伸し上がって行った。
是までにも度々関東と関西の行き来をしていて街道の宿場には、おそらく何人かの「妾」がいて、
旅の途中のお世話にも当ったのではないかと思われる。
その中の1人延寿が美濃の青墓(岐阜県大垣市)に居た。
戦に破れた義朝は先ず、この妾の所を目指している。
他にも行く場所は沢山ありそうに思いがちだが、実はそうは行かない。
 何故なら「平治の乱」は当時の武士社会では一大関心事だったから。
昨日まで、信頼できると思っていた人物が、「義朝敗れる」の噂を聞き、
既に寝返っているかも知れない・・・誰でも簡単には信用できない時代だった。
その点でも、社会情勢に疎い「女」なら、まして「妾」なら寝返る可能性も少なく
敵にも見つかりにくい。それに、美濃は日本のど真ん中。交通の要。
この先 どこに逃れるにも、向かうにも都合のいい場所だった。
posted by KANCHI at 18:26| Comment(0) | 頼朝ブログまとめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

源頼朝まとめ

今日は休みます。
posted by KANCHI at 23:24| Comment(0) | 頼朝ブログまとめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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