2009年10月15日

源頼朝の弟 希義

源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑となった時、頼朝の弟 希義は7歳か9歳だった。
伊豆香貫の伯父 藤原範忠の裏切りで朝廷に差し出され
永暦元年(1160)3月11日 土佐国(高知県)に流刑となった。
「希義」という名は流刑するために平氏によって付けられたと言われている。
希義は流刑人として20年を過ごし土佐国で成長した。
頼朝の他の兄弟がそうだった様に希義もまた
治承4年(1180)8月 頼朝の挙兵を知り参戦したいと願うが
平重盛の家来によって奇襲され討たれてしまった。と「吾妻鏡」に記され、
また「平治物語」には自害した。と記されている。

希義の師僧 琳猷上人(りんゆうしょうにん)によって
希義の死の報せは遺髪と共に秘かに頼朝の元に送られるが、頼朝は酷く悲しみ
後に梶原朝景に命じて希義を討った平重盛の家来 蓮池家綱・平田俊遠の2人を討たせ
土佐国に希義の菩提を弔うため西養寺を建立した。
また希義の次男 希望(まれもち)を優遇し土地を与え、土佐 吉良氏の祖とした。

頼朝にとって同じ母から生まれた希義は
ライバル心を持たずに愛せる唯一の弟だったのではないだろうか?
実の弟の誕生を幼かった頼朝は心から喜び可愛がっていた様子が目に浮ぶ。
義経や範頼に心を開く事が出来なかった本当の理由は
この希義の存在があったからではなかったか?
母の違う弟達に出会う度に頼朝は いつも心のどこかで
実の弟 希義と比べて見ていたのではないだろうか?
頼朝の希義への愛情が 義経や範頼への冷たさへと変った気がしてならない。
posted by KANCHI at 09:47| Comment(3) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
娘(小学5年)に、頼朝は伊豆蛭ヶ小島に流刑となったが、その時誰に預けられたかと聞かれ、北条氏(時政)だろと答えました。答えたのですが、気になってネットで調べているうちに、このブログへたどり着きました。Wikiでは平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする学説とか、摂津源氏の源仲綱が伊豆守だったと書いてあり、ひょっとすると蛭ヶ小島で小屋でも建てて一人で住んでいたのかとも思えるのですが、どうお考えですか?
Posted by Ddog at 2009年10月15日 22:37
Ddogさま
コメント有難うございます。
伊豆に流された時、13歳だった頼朝はもう元服をしていますから蛭ヶ小島では小さな小屋を与えられ身の回りの世話は2人の家来にしてもらって、つまり3人暮らしです。
経済的に支えたのは頼朝の母 由良御前の父 藤原季範と頼朝の乳母 比企の尼だと言われています。
ちなみに2人の家来のうちの安達藤九郎盛長は この比企の尼の娘婿です。
北条時政や伊東祐親はむしろ見張り役で生活支援は出来ない立場でした。
政子との結婚後は別ですが・・・。
Posted by KANCHI at 2009年10月16日 00:20
有難うございます。

やはりそうでしたか、本棚からいろんな本を引っ張り出しても、ネットでも調べたのですが、検索できませんでした。

蛭ヶ小島で小さな小屋を与えられ2人の家来と3人暮らしでしたか。

なんかクイズに当たったような気分ですね。ちょっと嬉しい気持ちになりました。

ブックマークしましたので、また訪れます。宜しくお願いします。
Posted by Ddog at 2009年10月17日 23:38
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