2012年05月07日

源頼朝の残念な叔父「為朝」登場

源頼朝は今回、語りでは大活躍していたが その姿は見る事は出来なかった。
頼朝どころか、その父 義朝の姿すら ほんの1シーンの登場だった。
源氏で一番 活躍したのは我子を戒める為義と、戒められる方の息子 為朝(ためとも)だ・・・
表現が難しいが・・・「えっ!誰っ?」と思わず言いたい気分になった
まるで機動戦士ガンダムの様な姿で・・・大魔神かな?・・・とにかくインパクトのある登場だ。
親戚にあんなのが居たら私なら確実に他人のふりをする。
しかし今回、頼朝は「語り」担当なので、コメントせずには居られなかった様だ。
またもや頼朝にとって残念な叔父さんをご紹介せざるを得なかった。
しかし叔父さん達が残念であればあるだけ、義朝の評価はあがり
頼朝の正当な血筋説に有利だ。頼朝の生まれながらの強運がジワジワと見えてくる。

さて今回18回「誕生・後白河帝」では勿論 雅仁の即位が中心だ・・・
しかし正直ドラマを見ていてなぜか疑問符「」ばかりが浮かんで仕方なかった。
登場人物の心の中の事ばかり表現しなければいけない回で史実に基づくのは
結局 雅仁が即位し後白河天皇となった事だけだ。
その史実一つを基に登場人物の心の中を表現するには
制作側にかなりの想像力と決断が必要だったと思う。
そして現に私もそれを見て疑問符を浮かべた一人の視聴者となった。

鳥羽院は叔父子として崇徳院を忌み嫌い、彼にした事を悔いていただろうか?
清盛は「崇徳院に謝るべきだ」と鳥羽院を説得したか?
説得された鳥羽院は謝りたいと望み、崇徳やその子 重仁(しげひと)を即位させても良いと
たったの一度でも考えた事があっただろうか?
何を根拠に あれほどに鳥羽院の後悔する様子にこだわり描いたのだろう?
カワイイ可愛い我子 近衛帝を亡くした悲しみからだろうか?
一説には左大臣 藤原道長が近衛帝を呪詛したとも聞く。
勿論、その話し自体が藤原道長を陥れる他の誰かの陰謀だったかも知れないが
結果として藤原道長が崇徳院側に付く事を思えば、
果たして呪詛で我子を殺した相手に謝罪したいと鳥羽院は考えただろうか?
私にはどうしてもそんな風には思えない。
他にも疑問は沢山あるが、続きは次回のブログで・・・10日(木)予定。
posted by KANCHI at 09:29| Comment(2) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月19日

源頼朝をも巻き込む2組の兄弟

源頼朝(岡田将生)が語りで…
「その美しいお方は、のちに我等 源氏の行末に大いに関わって来る事になる」と
その美しさを認めた美女(武井咲)常盤が朝廷デビューとなった。

今回のドラマで想像を超えていたシーンがある。
それは白河院の落し種であるがゆえに鳥羽院から退位させられた崇徳院
鳥羽院の子でありながら母が璋子(たまこ)である事でないがしろにされている雅仁(後白河)が
共に暮らすシーンだ。
実を言えばこれまで、天皇や朝廷が御所に暮らす事は漠然と理解していたが
それを具体的に想像する事すらなかったので、
勝手な思込みで対立する其々の天皇や上皇は、別の御所か
あるいは離れて暮らしているものだと想像していた。
よりによって最悪最大に対立し憎み合うもの同士が
同じ場所に暮らしているとは思いもしなかった。
ドラマのシーンの様に、顔を合わせ言葉を交わす事はどの程度あったのだろう?
そうして暮らしていても心通じ合わせる事は出来なかったのだろうか?
いや、もしかすると顔を合わせる事があったが為に憎しみ合う事になったのかも知れない。
顔を合わせても心を割って語り合う事など出来なかっただろうし・・・
そこには天皇の権威を利用して伸し上がろうとする族の思惑があった。
ある事ない事 耳打ちされて、先入観無しに相手を見る事など出来なかったに違いない。

摂関家 藤原家の長 藤原忠実の息子、長男は関白 忠道、次男は内大臣 頼長
いよいよ兄弟対立がエスカレートして行く。
久安6年(1150)1月4日、鳥羽院と美福門院 得子の間に生まれた近衛帝が元服し
尽かさず頼長は養女 多子(たし)※ドラマの中では(まさるこを入内させる。
続いて忠道が養女 呈子(せいし)※ドラマの中では(しめこを入内・・・。養女の入内合戦だ。
そしてその対立に崇徳と後白河が・・・そして源氏と平氏が巻き込まれて行く。
posted by KANCHI at 02:43| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月05日

源頼朝は三男坊で嫡子

源頼朝が三男坊である事は、再三ブログでも書いているし、前回もドラマの中で父 義朝が
自らの力で豪族同士の領地争いに加勢し、勝利を収め、家来を増やし、子孫も増やした件は書いたが。
当時はまだ現代の様に長男が跡継ぎになるという習慣は無かったのだと聞いた事がある。
頼朝は三男だが母が熱田神宮の宮司の娘で、最も由緒があり位が高く、血筋が良かった事から
生れる前、いやドラマの中では「そなたには嫡男を産んでもらいたい」と、
そうなる前から( ← どうなる?笑) 断言されていた。
現実には生まれて来た子供の素質が大きな判断材料となったのではないか?と想像するが
それにしても源氏に比べて何故か平氏は血筋よりも生まれた順番にこだわっている様に思えてならない。
平忠盛の正室として納まった宗子(池の禅尼)の産んだ子より清盛が優遇されるのは
先の白河院の子だから仕方ないとしても、
今回の清盛の子が産まれるシーンで、継母 時子が子を産めば、その子ばかりが可愛がられ、
自分達は可愛がられないのではないか?と心配する前妻 明子の子 清太と清次の様子が描かれていた。
それと同時に好き放題の兄 清盛に対し、正室の子 家盛が母の本心を知って
自らが嫡男でありたい!あるべきだ!決起する様子が最後に描かれていた。

次回14回「家盛決起」は当時の嫡男事情をじっくり考える回になりそうだ。
posted by KANCHI at 09:12| Comment(1) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月21日

源頼朝の兄「朝長」の首

源頼朝には2人の兄がいた事は何度も紹介したが
特に2番目の兄 朝長に関しては その心の優しさに引かれ
彼が亡くなった大垣市の青墓には是非行って見たいという
思いを書いた事もある。
昨日読者の方からコメントを頂き、また行って見たい場所が増えた。
それは静岡県袋井市三川 友永にある曹洞宗のお寺 積雲院である。
http://www.hellonavi.jp/hukuroi/shisetsu/1730.html
袋井と言えば遠州三山(尊永寺・油山寺・可睡斎)と
メロンの栽培が有名で仕事で何度も訪れていたが
そこに頼朝の兄 朝長の墓がある事は全く知らなかった。
何故 袋井に朝長の墓があるかについては
コメントを寄せてくれたにしむらさんのブログ
http://nisimura.hamazo.tv/e2677311.html
を見ていただければ分るが
朝長の家来 大谷の忠太(おおやのちゅうた)が
さらしものとなった御曹司の首を命懸けで京 六条河原から運び
自分の故郷に人知れず祀って守り通した その思いが伝わってくる。
この寺が有名でない理由も その為ではないだろうか?

積雲院には朝長の父 義朝や兄 義平の碑もあるらしいが
大垣で離れ離れになった親兄弟と共に祀ってやりたいという
後世の人の思いも伝わってくる。
地名の友永が朝長から付いた事にも感慨深い。
源頼朝はここに兄の首が祀られている事を知っていただろうか?
もしかすると征夷大将軍となり京に上る途中に
この地を訪れ手を合わせているかも知れない。
posted by KANCHI at 09:58| Comment(2) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月02日

源頼朝の弟「義経」の真実

源頼朝のイメージを尽く悪くしているのは
弟 義経である事は間違いない。
どんな映画でもドラマでも歴史番組でも・・・
伝説のヒーロー義経のイメージで義経は良い人で描かれ
義経を善く描くために頼朝は悪者に描かれてしまう。
しかし頼朝を愛する者にとって・・・
愛情を持って表現するなら義経はただの「単純バカ」でしかない。
少なくとも私の中では・・・そうである。

昨夜もNHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で
ヒーロー義経の真実を取上げていたが
京都の暗ら〜ぁい山の中「鞍馬」で何も知らずに育った彼が
自分の父親が平清盛に殺されたと知り
復讐に燃えて生きる様になった事が・・・
結論として綺麗に無難にまとめられていて
然程 これまでのヒーローイメージを大きく覆すものでは無かった。
「まっ そうだろうなぁ〜」と言う感じ。
つまり頼朝のイメージも少しも変らないのが
頼朝を愛する者にとっては不満だった・・・と言う事である。
posted by KANCHI at 04:33| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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