2010年06月07日

源頼朝の血筋たち

源頼朝の子であったが為に生まれて間もなく母のもとから離され
頼家は乳母に育てられた。
頼朝ほどの人を育てた比企氏だからこそ・・・そんな思いで任せたが
政子にとっては後悔の種になってしまった。
比企氏によって甘やかされて育ってしまった頼家は産みの母 政子には懐かず。
乳も与えず抱く事も無かった我子に
政子も強い愛情を感じなかったのかも知れない。
と言うよりは・・・育ての母 比企に懐き甘える頼家の様子に
可愛さ余って憎さ百倍の感情が政子に生まれたのかも知れない。
政子はこれを教訓にして次の男子 実朝の乳母を実の妹 阿波局にする。
とは言っても政子が決めた事では無く、政子の思いを知る頼朝が
弟 全成の申し出を聞き入れ決めた事の様である。
もう比企氏は懲り懲りだと言う思いが頼朝にもあったのだろうか?
それとも 唯ただ政子の為だったのか?
確かに乳母が妹なら 我子と引き離されるという事はない。
教育方針に関しても心置きなく話しが出来るし頻繁に顔を見る事が出来る。
大河ドラマ「草燃える」の中では妹に甘える実朝の姿に政子が嫉妬し
寂しそうにする様子が描かれているが
実朝は優しく育ち、頼家の様な問題児には描かれていない。
実朝は政子の思う様に育ったのだろうか?
この乳母選択は正しかったのか誤りだったのか?
他に選択はあっのだろうか?
もし正しかったとしたら・・・なぜ源氏は3代で絶えたのだろう?
posted by KANCHI at 08:25| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

源頼朝モテモテ

源頼朝を支持する若手チームとして考えると
チームのリーダ的存在 伊東祐清を失った事は大きな痛手である。
しかし今や若手どろか・・・北条時政を味方に付けた様なものだ!
ただし、北条時政は喜んで源頼朝を囲った訳では無い。
息子 宗時と烏帽子親を務めた伊東祐清に頼み込まれて
止むを得ず 引き受けたに過ぎない。
それでも北条宗時は喜んでいた。
「我家に源頼朝がいる」
頼朝よりも6〜9つ年下だったと思われる宗時にとって
近寄り難かった頼朝と誰よりも親しくなるチャンスが訪れたのである。
しかし この宗時よりも「我家に源頼朝がいる」ことを喜んでいる者がいた。
それは宗時の妹 北条政子である。
政子は頼朝の事を兄 宗時から聞かされていた。
宗時は頼朝に惚れ込んでいるのだから 政子の知っている頼朝は
長所ばかりの頼朝だったに違いない。
政子は何度か頼朝を見掛けている。そして既にときめいていた。
その頼朝が今 我家にいる。年頃の娘がドキドキしない訳が無い。
posted by KANCHI at 09:59| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月19日

源頼朝の実弟

源頼朝の弟 希義について現在知り得る事は全て書いたが
いずれにしても明確な記録が無い事は残念に思う。
頼朝の実弟に対する愛情が明らかに表現されていれば
弟 義経を死に追いやった冷酷な頼朝のイメージも少しは変っていただろう。
ところで希義と頼朝の年齢差が3つか5つ・・・と曖昧な事が少し気になった。
これは勝手な想像だが・・・
もしかするともう1人の弟 義門の記録と紛れて記されているのではないだろうか?
頼朝の直ぐ下の弟 義門が3つ違いで、希義は5つ違いだったのではないか?
平治の乱の時には記録にあったらしい義門と30歳まで生きた希義。
歴史家の先生たちも断言出来ない程に記録が少ない。
本当に2人いたかすら確認できないのだから素人の私が勝手に想像しても許されるだろう。
2人の弟が生まれた時3歳だった頼朝と5歳だった頼朝が
生まれたての赤ん坊の顔を覗き ほっぺを指で触れ、兄となった自分に
少し照れながら 喜んでいる姿を想像してしまう。
平治の乱で父や兄達と共に戦いたいと思い初陣を決めた頼朝の心の中に
この可愛い弟たちを守りたいという思いがあったのではないだろうか?
だから頼朝はたった12歳で少しも恐れる事なく戦えたのだと思う。
posted by KANCHI at 10:30| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月15日

源頼朝の弟 希義

源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑となった時、頼朝の弟 希義は7歳か9歳だった。
伊豆香貫の伯父 藤原範忠の裏切りで朝廷に差し出され
永暦元年(1160)3月11日 土佐国(高知県)に流刑となった。
「希義」という名は流刑するために平氏によって付けられたと言われている。
希義は流刑人として20年を過ごし土佐国で成長した。
頼朝の他の兄弟がそうだった様に希義もまた
治承4年(1180)8月 頼朝の挙兵を知り参戦したいと願うが
平重盛の家来によって奇襲され討たれてしまった。と「吾妻鏡」に記され、
また「平治物語」には自害した。と記されている。

希義の師僧 琳猷上人(りんゆうしょうにん)によって
希義の死の報せは遺髪と共に秘かに頼朝の元に送られるが、頼朝は酷く悲しみ
後に梶原朝景に命じて希義を討った平重盛の家来 蓮池家綱・平田俊遠の2人を討たせ
土佐国に希義の菩提を弔うため西養寺を建立した。
また希義の次男 希望(まれもち)を優遇し土地を与え、土佐 吉良氏の祖とした。

頼朝にとって同じ母から生まれた希義は
ライバル心を持たずに愛せる唯一の弟だったのではないだろうか?
実の弟の誕生を幼かった頼朝は心から喜び可愛がっていた様子が目に浮ぶ。
義経や範頼に心を開く事が出来なかった本当の理由は
この希義の存在があったからではなかったか?
母の違う弟達に出会う度に頼朝は いつも心のどこかで
実の弟 希義と比べて見ていたのではないだろうか?
頼朝の希義への愛情が 義経や範頼への冷たさへと変った気がしてならない。
posted by KANCHI at 09:47| Comment(3) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月12日

源頼朝の謎の弟

源頼朝の弟と言えば一般的には「義経」を思い浮かべるが
ちょっと詳しい人なら「範頼」の名も答えられるだろう。
義経や範頼に関しては連載の中でも描いて来たが
頼朝には範頼との間に義門(よしかど)希義(まれよし)という弟がいたらしい。
この謎の弟の存在については殆ど何も知られていない。
この2人の弟は頼朝と母が同じだったという説があるが
頼朝の直ぐ下の義門にいたってははっきりとした記録は無く、
頼朝の幾つ年下だったのかも分らない。
頼朝の父が起こした平治の乱までは生きていた記録があるが
その後の記録が無く幼くして亡くなったと推測されている。
また その下の希義に関しても年齢差が3つか5つと曖昧で
頼朝が伊豆に流刑となったのと同時に
7歳か9歳の頃 土佐国(高知県)に流刑となりそこで育った。
頼朝の挙兵の際、平氏より謀反の疑いをかけられ亡くなったらしく
年齢は30歳ほどだったらしいが、その亡くなり方には諸説あり
詳しくは次回のブログでお話ししたい。
posted by KANCHI at 08:44| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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