2009年10月08日

源頼朝の兄への気遣い

源頼朝は2人の兄をどう思っていたのだろう。
冷静沈着な頼朝の人間観察には定評がある。
兄弟だから、身内だから、という感情は一切貫きにして頼朝は兄達を評価していたであろう。
特に兄弟とは言っても異母兄弟である。
生まれた所に一緒に居た訳でもなければ一緒に育てられた訳でもない。
頼朝も兄達も其々の母から生まれ、其々の環境で育った。
「兄弟だよ」と紹介されて出会った時には既に嫡子としてのプライドを持ち、
お互いがライバルだったはずである。
頼朝は生まれた時から嫡子として育てられた。
2人の兄がいる事も聞かされていただろうし、
その兄に負けてはならないと言い聞かせられていただろう。
兄である2人のプライドを傷付け無い様に気を遣いながら
2人より「出来る男」でいなければならない。
頼朝の人間観察力はこうして培われて行ったに違いない。
posted by KANCHI at 10:41| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月05日

源頼朝の兄 朝長はA型?

源頼朝のふたり目の兄 朝長の存在は影が薄い。
歴史が好きな人でも朝長を知る人は少ないだろう。
当時の男子が戦うために存在し評価された事を思うと
朝長の存在は現在よりも当時の方が薄かったかも知れない。
頼朝の一番上の兄 義平とは対照的で、
まるでアニメに登場するキャラクターの様で面白い。
義平がジャイアンで朝長はスネオ・・・って感じだろうか?
性格的には「のびた」だったかも知れない。
おそらく細身の身体で青白い顔をしていて弱弱しい。
スラリというよりはヒョロヒョロを想像してしまう。
戦を嫌い、恐れ、源氏の子として生まれた事を悔やんでいたのではないだろうか?
しかし、その最期は心惹かれる。
源頼朝にゆかりのある地には その殆どに足を運んだが
一番行って見たい場所は この朝長の最期の地 美濃国 青墓である。
現在の岐阜県大垣市のはずれ・・・
苔むした五輪塔の墓に是非 手を合わせたい。

朝長は父 義朝の心を誰よりも感じ取っていた。
しかし父の望む息子に自分がなれない事も分り過ぎる程知っていた。
父を思い、源氏を思って彼は その死に方を選んだのだと思う。
当時は評価される事はなかったかも知れないが
その優しさと心の強さにどうしても心惹かれてしまう。
posted by KANCHI at 09:19| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月01日

源頼朝の兄 朝長の母も遊女?

源頼朝にはもう1人兄がいる。
頼朝より3歳年上の朝長である。
頼朝の父 義朝が21歳の時の子供だが・・・これも又、母の記録が曖昧である。
現在の神奈川県秦野市・・・相模国松田郷の波多野義道の妹だという説があるが
遊女説もある。これにもKANCHIの想像を述べるとすると・・・
考えられるのは2つ。
1つは義平の時と同じで・・・21歳の義朝が遊女に子供を産ませ、
それなりの環境で育てるために波多野氏の妹とした説。
もう1つは「鶏が先」の説・・・波多野義道が源義朝との関係を深めるため
義朝好みの遊女を自分の妹だとし、義朝に紹介した説。

波多野氏にしてみれば妹だと強く主張した方が都合が良いし、
他の誰か・・・この場合は頼朝の母 由良御前の事をさすが、
自分の産んだ子(頼朝)を嫡子とするためには
頼朝の兄ふたりの母は何れも遊女である方が都合が良い。
つまり諸説が残る訳は・・・双方の思惑が現在にまで影響しているのである。
posted by KANCHI at 08:04| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月28日

源頼朝の兄 義平はO型?

源頼朝には2人の兄がいる。
1人目の兄は通称 悪源太義平「源義平」である。
頼朝より7歳年上で・・・イメージとしては身体も態度もデカイ!
短気で行動派だが品がない。って感じ。
言っておくが あくまでもイメージである。
血液型はO型ではないだろうか?と想像してしまう。
おおらかで大胆なのが長所で繊細さに欠けるのが短所。
ちょっとした油断が命取りになる。
そんな想像をしてしまう様な最期を遂げている。
母は橋本御前・・・・鎌倉の三浦義明の娘(養女)だという説もあるが
京都郊外 橋本の遊女だったという説や
越前足羽(あすわ)の豪族 林光成の娘だという説もある。
結局 はっきりした事は判らないがKANCHIの想像では・・・
父 義朝が17歳で京都郊外 橋本の遊女に産ませた子供だと思うよ。
それなりの環境で育てるために遊女ごと三浦義明が養父となった。
って事じゃないかな?
林光成の娘が何らかの都合で遊女になった可能性もある。
「卵が先か鶏が先か?」って感じ。
posted by KANCHI at 11:01| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月10日

源頼朝 暗殺計画の真実

源頼朝 暗殺計画を範頼が知っていたからと言って範頼が首謀者とは限らない。
現に範頼は、事件の首謀者とは思えないほど、あっけなく殺されている。
確かに頼朝は 弟 範頼を疑っては居たと思うし幽閉までは命じたかも知れないが
幽閉して直ぐに殺す命令を頼朝が下したとは思えない。
初めから殺すつもりなら鎌倉で殺す事も出来たはずだし、
わざわざ伊豆 修善寺に幽閉する必要はないからである。
範頼は口封じの為に殺されたのではないか?
それは あの「頼朝暗殺計画」の事についてである。
曽我兄弟も源範頼も、陰の大きな力に操られ、利用されたと思わずにはいられない。

源頼朝を殺して得をするのは誰か?
事件の真相を知るには そこから追求しなくては成らない。
しかし残念ながらこの事件は計画はされたが成功はしていない。
暗殺計画は失敗に終り、頼朝は生き延びたのである。
だからこそ計画の証拠は残されず、歴史の中にも記される事は無かった。
歴史の中の出来事には常に2つ以上の説がある。
そして歴史は常に残された者によって書き換えられてきた。
例えば範頼の事にしても彼が殺害されず真実を語っていたら状況は変わっていたかも知れない。
政子は範頼の言葉「私が居る限り源氏は安泰です。」を頼朝に伝えたが、
それは富士の巻狩りから2ヶ月も後の事だ。
なぜ政子は突然思い出したかの様に、そんな事を言い出したのか?
もしも 範頼の言葉が政子の虚言だったとしたら?
政子は範頼の口封じをする為に嘘を言った事になる。
となると頼朝暗殺計画を政子も知っていたのだろうか?
富士の巻狩りから2ヶ月の間に何があったのか?
ただ明らかな事は、範頼は殺害され、政子は後に残った事である。
政子の都合のいい様に歴史は書き換えられたのかも知れない。
そうした小さな書き換えの積み重ねで 歴史は大きく解釈が変わってしまうのである。
全ての真相を正確に知る事は、新たな証拠でも出ない限り、不可能と言っていい。
範頼は罪を着せられたまま殺されてしまい、真実は闇の中に葬られてしまった。
今後「頼朝暗殺計画」を疑われたら、とりあえず範頼のせいにしてしまえば良いのである。
posted by KANCHI at 08:34| Comment(0) | 頼朝の兄弟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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