2011年03月03日

源頼朝の時よりは良好?

源頼朝が後白河院に振り回され泣かされ
「大天狗」とあだ名まで付けていた事を思えば・・・
実朝と後鳥羽院の関係は良好だったと言うべきだろうか?
しかし心の中を明らかにする手立てがない。
朝廷と武士が心を分かち合う事など本来ありえないからだ。
実朝を描く本によっては和歌を通じて2人の仲は良好だったと
描くものも ある事はある。
しかしそれは何を根拠にそう描いているのかが
今ひとつ明確ではない・・・
その上、大河ドラマ「草燃える」の44話『後鳥羽院 頌歌(しょうか)』
では後鳥羽院が最勝四天王院を鎌倉呪詛(じゅそ)の目的で建立し、
その障子絵をあえて藤原定家に選ばせた事が描かれている。
それとは知らず絵と詩を選んだ定家が事実を知らされ
驚き震える様が印象に残っている。
ドラマで描かれている後鳥羽院の様子からは
鎌倉幕府や実朝との良好な関係など少しも見えて来ない。
これもまた、そこまでに描いた根拠は何だろう?
後に、この後鳥羽院が承久の乱を起こすからだろうか?
そして鎌倉幕府によって隠岐に流され亡くなるからだろうか?
しかし それは後の事で・・・この時はまだ乱も流刑も起きてはいない。
posted by KANCHI at 09:50| Comment(0) | 頼朝の家系図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月28日

源頼朝だって手紙名人

源頼朝も手紙を書くのは得意だった。
流刑地から全国の豪族に手紙を送り その心を操ったし、
北条政子の心も手紙と詩で操った。
それに「新古今和歌集」の中にも頼朝の詩が選ばれている。
しかし和歌と言えば頼朝よりも実朝だろう。
都で1番の歌人と言われた藤原定家の弟子となり
熱心に詩を読んでいる・・・。
そしてもう一人、有名な歌人がいる。
それが後鳥羽天皇であった。
元は この後鳥羽帝が藤原定家を評価した事から、
藤原定家の名は知られるようになり都一と呼ばれる様になった。
だからこそ鎌倉の実朝も藤原定家を師としたのだろう。
しかし・・・後鳥羽帝と藤原定家の和歌に対する考え方には
大きな違いが生まれていた。
「新古今和歌集」の選出にあたり2人は犬猿の仲になったと
大河ドラマ「草燃える」では描かれている。
そんな事を・・・鎌倉にいる実朝が知るはずがない。
藤原定家の肩入れする事は、後鳥羽帝を敵に回す事ではないだろうか?
命取りと言っても過言ではないかも知れない。
posted by KANCHI at 11:53| Comment(0) | 頼朝の家系図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月24日

源頼朝より優れた才能

源頼朝の息子 実朝と言えば鎌倉幕府の3代将軍だが、
将軍としてより歌人としての印象が強い。
実朝が将軍として行った事は 殆ど残っていないが、
実朝が詠んだ歌は多く残っている。

この時代、京の都には歌詠みが流行っていた。
とは言っても・・・朝廷貴族の間では古くからずっと流行っていた。
他にする事もないのだし・・・
しかし歌詠みには才能とセンスが必要だった。
心で詠むか、流行を取り入れるか、古い形式で詠むか?
それによって出世するかどうかも左右された。
時の天皇 後鳥羽天皇も歌人として有名だ・・・
京と鎌倉で後鳥羽天皇と実朝も歌の交流があったらしいが
それを交流と言うべきではない様にも思える。
どうやら空気を読まず自作の歌を送っていたのは
実朝の方だけらしい・・・。
実朝は京で一番と言われた和歌の名士 藤原定家を師と仰ぎ
こちらとも交流があった・・・定家の本心は分からないが
大河ドラマ「草燃える」の中では・・・
藤原定家は実朝を可愛がり熱心に指導している様子が描かれている。
問題なのは・・・この後鳥羽天皇と藤原定家の仲が悪かったと言う事である。
二人の歌に対する考え方には 大きな見解の差があった。
実朝はそれとは知らず、せっせと自作の歌を送っていた。
たかが「歌」されど「歌」だったのだ。
posted by KANCHI at 12:06| Comment(1) | 頼朝の家系図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月21日

源頼朝の時の様に?

源頼朝の時代、それ以前から朝廷と武士の関係は常に微妙である。
日本史の全ては この朝廷によって生まれたと言っても過言ではない。
以前にも何度も朝廷の持つ「権威」武士の持つ「権力」について話したが
いわば神の子孫と信じられて来た天皇(朝廷)には
「権威」という目には見えない不思議な力がある・・・。
もしくは人々が創りあげた虚像なのだろうが
世界に「神」のない国を見た事がない様に
人々はそれを必要とし勝手に創りあげて来た。

武士も目に見えない「権威」を信じ、それと関わる事で「権力」を手にして来た。
目に見える「権力」と目に見えない「権威」の関係は常に微妙だ
それが朝廷と武士の関係でもある。
多くの武士が朝廷と深く関わり過ぎて消えて行った・・・
平清盛・・・その失敗例を見ていながらも、
愛してやまない頼朝さえも最後には関わり過ぎた感がある。
その為か暗殺説が消えていないのも事実だ。

では実朝はどうだろう?
彼は確かに頼朝以上の官位をねだり、朝廷はそれを与え続けた。
しかし清盛や頼朝の様に・・・恐れられる存在だっただろうか?
急ぎ殺す必要があっただろうか?
posted by KANCHI at 10:12| Comment(0) | 頼朝の家系図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月17日

源頼朝の跡を継ぐ者

源頼朝よりも高い官位を願った実朝が
実は自分が甥の公卿に恨まれていると知った というところまで話しは進んだが・・・
前回の記事も実は2009.6.25 に書いた文である。
http://yoritomo.seesaa.net/archives/20090625-1.html
その続きは2009.7.6 の「実朝の最期」
http://yoritomo.seesaa.net/archives/20090706-1.html
更に2009.7.9 の「公卿の最期」に続く。
http://yoritomo.seesaa.net/archives/20090709-1.html
そこまでの流れは歴史上に起こった事実らしいので
前回の文をそのまま読んで頂ければいいと思う。が・・・
私が伝えたいのは・・・
2009.7.13 の記事をどう読むかである。
http://yoritomo.seesaa.net/archives/20090713-1.html
「それが誰なのか?読者の皆様にも既に想像が付いているはずである。」
と言う言葉の中に「北条義時を疑え」と言う私の気持ちが含まれている。
しかし今は・・・違う思いを持っている。
それが何なのかを次回書きたいと思う。
ただし・・・書く事は「事実」ではなく、あくまでも私個人の「見解」である。
posted by KANCHI at 10:36| Comment(1) | 頼朝の家系図 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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