2010年05月24日

源頼朝の母への思い

源頼朝の母として生き抜いた比企尼は頼朝の伊豆流刑と共に武蔵に下った。
夫の掃部允(かもんのじょう)が武蔵国比企郡の代官となったので武蔵に暮らし
20年もの間 食料を中心とする生活物資をせっせと送り続けたのである。
そして頼朝の心を支える人材をも送り続けた。
夫の掃部允が亡くなった後も、彼女はひとり頼朝を支え続けた。

頼朝も比企尼を母として慕い
やがて鎌倉に幕府を開いた際には鎌倉の中心地に広大な屋敷を建て
比企尼を武蔵から招き住まわせた。
頼朝は政子と共に度々 比企の屋敷を訪ねているし
政子にとっては始めての男の子 頼家の産所にも比企の屋敷が選ばれた。
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043myohonji.htm
比企尼には娘ばかりで息子が無かった事から
甥の能員(よしかず)を養子として迎えていたが
能員の妻は嫡子頼家の乳母となった。
比企尼の次女 河越尼もこの時 乳母の1人となっている。
言わば源氏の嫡流の乳母「比企」の伝統が2代目 頼家誕生の際にも
引き継がれた・・・と言う事だ。
それは その時には極 自然の流れだった。

posted by KANCHI at 10:00| Comment(2) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月10日

源頼朝の20年

源頼朝が流刑されたとされる伊豆の蛭ヶ小島は中伊豆にある。
静岡県 伊豆の国市(旧 田方郡韮山町) 四日町には
※ 2005年に大仁町 伊豆長岡町 韮山町が合併→伊豆の国市
遺跡記念碑や頼朝と政子の夫婦がある。
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/shizuoka_bunkazai/toubu_hirugakojiima.html
頼朝が流刑された頃 どんな風だったのか?
どんな住まいだったのか?想像するしかないが流刑生活20年だから
他のどこよりも頼朝ゆかりの地と言って良いのではないだろうか?
これまで描いて来た頼朝の生活はその殆どが中伊豆にある。
頼朝の運命を左右した北条氏の館も
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/nirayama-jyofukuji.htm
最初の敵となった山木兼隆の館も
http://joe.ifdef.jp/005shizuoka/008yamaki/yamaki.html
ツアー旅行では訪ねられない 頼朝ゆかりの地が中伊豆には満載である。
しかし頼朝はやがて旗挙げし・・・長く過ごした伊豆の地を離れ様としていた。
それは頼朝が望んでいた事なのか?
それとも運命がそうさせたのか?
頼朝にとって伊豆は なつかしく恋しい思い出の地だろうか?
辛くて苦しい過去の地だったのだろうか?

posted by KANCHI at 08:06| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月06日

源頼朝の縁結び

源頼朝は恋多き男だったが初恋の相手 伊東祐親の娘 八重姫との恋も
結婚相手 北条政子との恋も・・・伊豆山権現神社が成就させた。
と言っても過言ではないだろう。
伊豆山権現は常に頼朝の味方となり
頼朝の恋の成就のためにも協力を惜しまなかった。
駆落ちしたふたりを匿い 遂には生涯の相手として結んでしまった。
反対していた父 北条時政の心さえも変えてしまったのである。

一生に一度の恋を叶えるなら伊豆山権現神社が最適なパワースポットである。
境内には御神木の「梛の木」がある。
この葉をお守りにすると願い事が叶うと言われ特に縁結びには定評がある。
また頼朝と政子がデートをした場所だと伝わる「頼朝・政子腰掛け石」もある。
他に頼朝と政子が始めて出会った場所とされる「逢初橋(太鼓橋)」がある。
逢初橋につていは諸説あり境内のものより
http://susono.jugem.jp/?eid=200
国道135号に架かる赤い橋の方が有名だが・・・

とにかく婚活女性にはオススメしたい。
ただし「浮気しない人」を望んでも保障は出来ないので
心の準備が必要である。
posted by KANCHI at 09:16| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月03日

源頼朝のパワースポット

源頼朝が流刑生活を送った伊豆の地をご紹介したい。
ゴールデンウイークだから・・・足を運んでみるのは如何だろう?
最近はパワースポットが流行っているらしいので
先ずは「伊豆山権現神社」から。
http://jinjya.info/index.html
この時代の神社や寺院は 現代の私達が思う神社とは
かなりイメージが違う事を先ずは認識しておく必要がある。
明治になって神社と寺院は分けられ、神社には神様が・・・
寺院には仏様が祀られる様になったが この時代にはその区別が無かった。
神社でも寺院でも神や仏を祀っていた。
また神社や寺院には神や仏を守るため・・・と言うよりは
その権威や権力を笠に着せる僧兵がいて絶大な力を持ち
例え武士であろうと豪族であろうと自由に出入りする事は許されなかった。
この時代の神や仏は貴族や権力のある豪族のためにだけあると考えられ
貧乏な庶民には拝む事すら許されていなかった。

頼朝は流刑人だが源氏の嫡流であり
読経に明け暮れてはいたが・・・それは庶民から見れば贅沢な事だった。
頼朝は父や兄の冥福を祈るため早くから伊豆山権現に通ったが
神社との関係を深める事には大きな意味があったに違いない。
頼朝が政子と駆落ちしたのも伊豆山権現なら石橋山の合戦の際に
妻や政子の姉妹たちや子供を預けたのも伊豆山権現だった。
伊豆山権現に足を運んで頼朝ゆかりの○○を探して見ては如何だろう?
貴方は幾つ見つけられるかな?
posted by KANCHI at 09:32| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月28日

源頼朝の逢瀬

源頼朝が八重姫と逢瀬を重ねたのは伊東の音無神社だと言われている。
頼朝と八重姫は誰にも知られぬ様に秘かに逢い、音もたてずに逢瀬を重ねた事から
音無(おとなし)の名が付いた。
もともと神社とは子孫繁栄を願う場所ではあるが
この音無神社は「尻摘み祭り」という祭りが有名で、
コンパなど無かった昔の男女の出会いの場であった。
それも頼朝と八重姫の逢瀬が始まりである。
<関連サイト>http://www.kaiun-goriyaku.com/22j-021.htm
また音無神社の向いには日暮神社がある。
八重姫が頼朝を待ち続けた場所である事から日暮(ひぐれ)の名がついた。
頼朝は住まいのある中伊豆から峠を越えて伊東に通い八重姫と逢瀬を重ねた。
観光バスで越えてもかなりの距離だし厳しい峠道だ・・・・。
どんな思いで通ったのだろう?

伊東祐親の娘 八重姫にしてみれば
どんな思いで待ち続けたのだろう?
それはまるでロミオとジュリエットの様だ。
「あぁ頼朝様・・・あなたはなぜ源氏なの?」と
八重姫は呟いただろうか?
posted by KANCHI at 06:30| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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