2009年10月26日

源頼朝13歳の流刑人

源頼朝が伊豆 蛭ヶ小島に流刑となったのは13歳の時である。
伊豆には東に伊東氏が、西には北条氏が、どちらもその見張り役を果たしていた。
平治の乱で平氏が勝利してから世の中は 平氏中心に動き従った。
いかに忠実に平氏に従うかで自分たちの運命も変る。そんな時代だった。
当時 誰も想像さえしなかっただろう・・・この13歳の流刑人が
いずれ平氏を滅亡させ幕府を開く事など。
つまり蛭ヶ小島での頼朝の生活など 誰も注目さえしていなかった。
蛭ヶ小島に流刑となった頼朝がどこでどう暮らそうと
生き様と死のうと、知ったこっちゃ〜ぁない。
頼朝に仕え蛭ヶ小島で共に暮らした家来ですら
そんな凄い13歳だとは思っていなかっただろう。
もしも 後に鎌倉幕府を開く人だと知っていたら頼朝の「一語一句」洩らさず記録しただろう。
頼朝の暮らしについて記録に残るのは頼朝が30歳の頃
伊東氏主催の伊豆の巻狩りに頼朝が参加した頃からである。
既に17年の歳月が流れていた。空白の17年間である・・・
この頃になって ようやく頼朝の存在は注目される様になった。
世の中が平氏の行う政治に疑問や不満を持ち始めた頃である。
もしかすると この流刑人・・・使える奴なのかな?というレベルだっただろう。
頼朝の空白の17年間は父や兄の冥福を祈り、平清盛や池禅尼に感謝して
「お経を読んで過ごした」という一言で片付けられている。
posted by KANCHI at 09:37| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月22日

源頼朝の流刑地

源頼朝が流刑生活をしていたとされる伊豆の蛭ヶ小島には
現在 頼朝と政子の像が立っている。
蛭ヶ小島については連載の中でも描いたが
伊豆最大の河川 狩野川が昔 現在よりも大河だった頃にその中州に出来た場所で
蛭が居そうなジメジメした土地だった事から その名が付けられた。
水の多い時には沈んでしまう様な所だったと想像できる。
その場所が頼朝の時代にどんな様子だったかは正直言うと分らない。
蛭ヶ小島の他にも周辺には「××小島」という地名が多くあり かなり広い範囲に亘る。
現在の蛭ヶ小島がそうである様に 既に川の中州では無くなっていたのかもしれないが
私の想像では・・・頼朝は川の中州に連れて来られ ポツンと1人、
或はお供の家来と数名でしばらくの間 中州に立ちすくんでいた姿を思う。
鎌倉時代 伊豆に流刑になった日蓮上人が波が来ただけで沈んでしまいそうな
小さな俎岩(まないたいわ)と呼ばれる岩礁に
船で連れて来られたと伝えられているのと ほぼ同じような光景ではなかったか?
流されて直ぐは 意地も開き直りもあって動かないかも知れないが
しばらく過ごせは その場所がずっと居られる場所でない事は明らかだし
日蓮も漁師に助けられたとされているが 自分で泳いで渡ったとも考えられる。
頼朝も川の中州にいつまでも居たとは思えない。
川を渉り、その周辺に地元民の力を借りながら小屋でも建てて暮らしたのであろう。
頼朝がどんな状況でここに到着したか?到着した当時どうだったのか?そんな記録は無い。
流刑地 蛭ヶ小島を「頼朝の流刑地はこの辺りだ」と推測し定めたのも
江戸時代後期の学者 秋山富南であるし
今よりちょっとだけ鎌倉時代に近い?
古い時代の学者の言葉を信じるしか他に方法がないのが実情である。
posted by KANCHI at 10:03| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月31日

源頼朝の産湯の井戸

源頼朝の産まれた場所を知ってる?
鎌倉幕府を開いた「源頼朝」は有名なのに意外と知られていないのが
その生誕地。
愛知県名古屋市熱田区白鳥2 誓願寺(せいがんじ)
熱田神宮の西側 国道19号線を挟んだ所にある。
この場所は当時 熱田神宮の大宮司 藤原季範の別邸があった所で
藤原季範の娘 由良御前が久安3年(1147)実家に帰り頼朝を出産したとされる。
寺の入口には「右大将 頼朝公 生誕地」の石碑がある。

名古屋にはもう一つ、頼朝の生誕地がある。
愛知県名古屋市瑞穂区井戸田町4 龍泉寺(りゅうせんじ)
熱田神宮の東方 約3.5kmの所にある。
この場所は津賀田神社の祠官である亀井六郎重清の屋敷があった所で
亀井六郎重清の母が頼朝の乳母を務めたとされ
寺の入口に頼朝の産湯の井戸とされる亀井水の石碑が建っている。

頼朝好きなら是非一度は訪ねて欲しい。
posted by KANCHI at 07:56| Comment(2) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

源頼朝が想像した未来

源頼朝は鎌倉幕府を開き征夷大将軍となったが
自分が亡くなった後の幕府をどんな風に想像していたのだろう?
そんな話しを妻の政子や子供達に、或は家来達に話した事はあっただろうか?
極普通に頼家が継ぎ、この子供が継ぎと考えていたのだろうか?
まさか こんなに短い源氏の終りが来る事など思いもしなかっただろう。

健保7年(1219)正月27日、数日降り続いた雪で鎌倉は雪景色だった。
鶴岡八幡宮では実朝の右大臣拝賀の式典が行われる日である。
酉の刻が近付き松明に先導された行列が鶴岡八幡宮へと続いく。
甲冑姿の武士たち、先導する源仲章(みなもとのなかあき)
太刀持ち役の執権 北条義時、そして実朝の乗る牛車
沿道には多くの人々がそれを見守っていた。
鶴岡八幡宮の楼門に到着し牛車を降りた実朝が徒歩で社殿に向かう
多くの者は楼門での待機を命ぜられ実朝の後ろに源仲章や執権 義時などが続いた。
しばらくすると義時は源仲章に気分が優れないと伝えて太刀を手渡し列から外れ
一行は社殿の中に入って行った。
間もなく式を終えた一行が石段を下る・・・下りきった所に大きな銀杏の木があった。
そこに息をひそめて 公暁が潜んでいたのである。
posted by KANCHI at 09:18| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月16日

源頼朝の開いた幕府

源頼朝が開いた鎌倉幕府は和田一族との戦いに勝利した。
しかしこの戦いで敗れた和田一族は頼朝の時代から鎌倉幕府を支えた一族である。
父 頼朝の意思を次いだはずの実朝には 勝利したとは思えない戦いだった。
「父が和田氏滅亡を望むはずが無い・・・・」
鎌倉幕府は本当に勝利したのだろうか?なぜ こんなに空しいのだろうか?

実朝に仕えた和田朝盛が出家を決意し出て鎌倉を出たと聞いた時、
実朝は朝盛の思いを知って涙した。
朝盛が鎌倉に連れ戻された時、出家しない様 説得し
戦が起こらない様に出来る限りの事をすると約束したのも自分である。
しかし 戦は止められなかった。 そして和田氏は滅亡したのである。
実朝は自分の無力さに絶望を感じずにはいられなかった。
由比ガ浜に打ち寄せる波に「爺・・朝盛・・・許せよ」とつぶやいた。
和田合戦のあとの実朝は蝉の声を聞いても蛍の光を見ても
和田義盛の亡霊がさまよっている様に思えた。
その度に実朝はつぶやいた「爺・・・朝盛・・許せ」
何度も何度も実朝は和田一族に詫びたが決して行動を起こそうとはしなかった。
幕府は将軍のものでは無い。将軍はお飾りに過ぎない。
父 頼朝の時代にはそうではなかったが自分はお飾りだった。
今 幕府は執権のものだった。自分の出る幕は無い。
お飾り将軍は心を隠し、ただ生き伸びる道を選んだ。
posted by KANCHI at 08:58| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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