2008年12月18日

源頼朝の最期

源頼朝はその日 橋の落成式に出された祝酒を呑み上機嫌であった。
義理の弟でもある稲毛重成が政子の妹の供養の為に相模川に橋を掛け
その橋が完成したのだから、その落成式に頼朝が参加しない訳にも行かない。
しかし残念ながら頼朝は酒に弱かった。
無理やり呑まされた酒に頼朝は酔い、その様子は上機嫌に見えていた。
しかし征夷大将軍のプライドもある。僅かな酒に酔ったとは言えずに
完成した橋を誰よりも先に馬に跨って勇壮に渡って見せた。
多くの御家人が後に続いた。気乗りはしないが頼朝の晴れの舞台である。
しかし、頼朝は落馬した。
頼朝自身も御家人達も、そこに集まった誰もが想像もしなかった事が起きた。
長年 馬を愛し、多くの暴れ馬も乗りこなした頼朝が落馬するなどありえない。
落馬した頼朝を皆が息を呑み見守る中、頼朝はピクリとも動かなかった。
頼朝が落馬した本当の理由は分からない。
酒のせいでは無いかも知れないし、そうだったかも知れない。
酒の中に何かが入れられていたかも知れないし、
頼朝自身に病があり それが原因だったかも知れない。
息はあるが意識のないままの頼朝を御家人達は急いで近くの民家に運び医者を呼んだ。
しかし意識は戻らない。そのまま頼朝を輿に乗せて鎌倉に運んだ。
多くの医者が集められたが頼朝の意識は戻らなかった。
頼朝が落馬した建久9年(1198)12月27日から数日が過ぎて新年を迎えた。
正治元年(1199)1月13日 頼朝はそのまま静に息を引取った。

大きな夢を叶え、更に大きな夢を描きながら53年の生涯を閉じた。
歴史の教科書で誰もが知る有名人となった源頼朝だが
そのあっけない最期には多くの謎が残ったのである。
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2008年10月27日

源頼朝と曽我兄弟 その2

源頼朝にとっては永遠に苦手な存在であった伊東祐親は工藤祐経の叔父に当たる。
複雑な血縁関係で遠縁ではあるが とにかく叔父と甥の関係だった。
工藤祐経の亡き父 祐継(すけつぐ)の領地を巡って両者は揉めていた。
祐継が亡くなる時 祐経が幼かった為、祐経の叔父にあたる祐親が
「祐経の元服まで」を条件に家督を継いだが、祐経が幼い事をいい事に
領地も全て 取上げてしまったのである。
祐親は甥 祐経に返すはずの河津の領地も自分の嫡男 祐泰に渡してしまった。
表向きには祐経の親代わりとなり、自分の娘 万劫御前を嫁がせたが
その娘も 祐経が京赴任中に離縁させ、土肥二郎実平の嫡男 遠平に嫁がせてしまった。
幼くして父を亡くした工藤祐経は祐親を親っていたが、後に実父 祐継の遺言を知り
両者の関係は最悪なものとなっていたのである。

そんな両者の関係に油を注ぐ事件が起こったのは頼朝が29歳、
八重姫との間に生まれた千鶴丸を亡くして3年後の安元2年(1176)10月の事だった。
相模の大庭景義らが流刑生活を送る頼朝を元気付けようと
伊豆の奥野で巻狩りを開催したのである。
伊豆国をはじめ相模国の豪族達は自慢の家来を引き連れて集まり、
昼間は狩り、夜は宴と三日三晩に亘り行われた。※ 7日間 説あり
ここに工藤祐経も参加していた。
工藤祐経には俣野五郎景久(またのごろうかげひさ)という家来がいたが
体格もよく強力で とにかく相撲に強かった。
宴の席で酒も入り、誰の家来が一番強いかと言う話しになった。
源氏の御曹司 頼朝の前でいつしか相撲大会が始まったのである。
工藤祐経の家来 俣野五郎が はじめに土俵に立ち、次から次へと勝ち抜いて
あっという間に32人を負かしてしまった。
日頃から領地を巡り不満を抱いていた祐経も俣野五郎の活躍に鼻高で機嫌が良かった。
ところがそこに登場したのが伊東祐親の嫡男 河津祐泰である。
見事 得意の「河津掛け」で俣野五郎を負かしてしまった。
日頃からの恨みに加え、頼朝の前で恥を掻かされた祐経の腹の虫は収まらず
遂に伊東祐親、祐泰親子の暗殺を企てたのである。
伊豆 奥野の巻狩りを終えて領地に帰る途中の親子を
大見小藤太八幡三郎の2人に待ち伏せさせた。
放たれた矢は伊東祐親には当たらず、嫡男 祐泰に当たり、伊東祐親は嫡男を失った。
そして幼い兄弟は父を失ったのである。
兄弟は成長し17年後「仇討ち」を果たす事となる。
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2008年10月20日

源頼朝の主催

源頼朝が主催で行われた「富士の巻狩り」は征夷大将軍の晴れの舞台だった。
「巻狩り」とは武士のスポーツ大会である。
馬に乗り弓矢で獲物を捕らえる。
武士にとっては馬に乗るバランスの上手さと弓矢の正確さ
そして多くの獲物を得れば弓矢の腕を認められ、大物を得れば その勇敢さを認められる。
スポーツ大会であり、軍事訓練としての意味もあった。
現在で考えるなら親会社の社長主催で行われるゴルフ コンペの様なものだろうか?
親会社の社長から参加を呼び掛けられる事は社員や子会社にしてみれば名誉な事である。
ゴルフ初心者も必死で練習に励み、足手まといにならない様、
また欲を言えば社長の前で良い所も見せたい。
仕事では なかなか注目をされない者でも
ゴルフで良い成績をだけば 出世に繋がるかも知れない。
子会社の社長にしてみれば、自分は本より「ウチにはこんな社員がおります」という
アピールにもなり、誰を連れて行くかは大事な問題である。

また主催者側にしてみれば、どれだけ大きなゴルフ場でどれだけ多くの社員が参加するか?
それは親会社の規模の証となり、社長の力の証である。
頼朝は諸国の武士に大会開催を伝え、広大な富士山の裾野をその場所として選び
自分の力を世の中に誇示しようとした。
自慢の馬と弓矢を携え諸国の武士が「狩」に参加した。
頼朝に良い所を見せたくて武士たちは勇んで「富士山自然動物 狩り大会」に参加したのである。
富士の巻狩りは建久4年(1193)5月8日から6月7日までの一ヶ月に亘って行われ、
頼朝に従い参加した武士 3万5千、諸国から集まった武士6万5千と
合わせて十万にも及ぶ武士が参加したと伝えられている。
しかし、この時 事件は起こった。それは「曽我兄弟の仇討ち」である。
この事件は単なる「仇討ち」では無い。そこには大きな背景が存在していた。
その背景に触れる前に、先ずは「曽我兄弟の仇討ち」について話したい。
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2008年10月16日

源頼朝の勢い

源頼朝には妻 政子との間に2人の男子が生まれている。
長男の頼家(よりいえ)は平清盛が病死した翌年、
養和2年(1182)の8月に生まれ、既に10歳になっていた。
そして後白河院が崩御して間もない(1192)8月に次男 実朝(さねとも)が生まれた。
皮肉にも頼朝の行く手を遮る2人の亡き後、まるでその生れ変りの様に
2人の息子が生まれている。
前に突き進む頼朝にとって遮る者の死も跡取の誕生も その勢いを増す追い風となっていた。
望みに望んだ征夷大将軍になったばかりの頼朝は次男の誕生を心から喜び
その子に恩人 九条兼実の名の一文字「実」に自分の名の「朝」を後に付けて
実朝と名付けている。頼朝の喜びが伝わって来る様である。
全てが頼朝の望み通りに進んでいる。頼朝の勢いは止まるところを知らない。
そんな頼朝は翌年の建久4年(1193)5月、富士山の裾野で「巻狩り」を催した。
有名な「富士の巻狩り」である。
この「富士の巻狩り」を一躍有名にしたのは ある事件だった。
その事件とは日本三大 仇討ち話しの一つとして知られる「曽我兄弟の仇討」である。
しかし その話しをする前に、先ずは「巻狩り」について話しておきたい。
それは源頼朝の勢いを全国に示す重要な意味を持っていた。
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2008年10月02日

源頼朝の上洛

源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした直後、朝廷は頼朝に対し「御家人」になる事を打診した。
「御家人」とは貴族や武家の棟梁に仕える武士の事で、つまり朝廷に仕える武士の事である。
今まで朝廷の為に戦ってきた頼朝には「今更」に思える打診だった。
頼朝がこれを辞退すると、朝廷は次に「按察使(あぜち)」の任官を打診して来た。
「按察使」とは地方の行政を監督する官職である。
しかし頼朝はこれも辞退している。
頼朝が望んでいるのはあくまでも征夷大将軍であったからだ。
そして遂に翌年の建久元年(1190)10月3日、頼朝は京に向けて鎌倉を発った。

鎌倉から京までの旅の途中、頼朝は父 義朝の終焉の地 尾張の野間に立ち寄った。
菩提を弔い、上洛の報告をした。
更に頼朝は美濃の青墓にも立ち寄っている。兄 朝長の最期の地である。
ここでも頼朝は菩提を弔い、上洛の報告をした。
今の自分がここにあるのは父や兄の死のお陰であるのかも知れない。
そんな思いが頼朝の中に込み上げて来た。
父の為にも兄の為にも、多くの家来の為にも、源氏の望みを叶えたい。
それは東国武士に与えられる最高の栄誉「征夷大将軍」になる事である。
11月7日、頼朝は千余騎を率いて京に入った。

かつて平清盛が屋敷を構えた六波羅に頼朝は新たな屋敷を建築させ
その新邸に入ったのである。
そして9日、遂に頼朝は後白河院との拝謁を果たした。
posted by KANCHI at 08:36| Comment(0) | 頼朝ゆかりの地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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