2011年12月29日

源頼朝の時代背景「保元の乱」その2

源頼朝の父 義朝の人生を大きく揺るがした「保元の乱」には
第2戦がある…それが「平治の乱」だ。
ソレもコレも、元を正せば白河院からのドロドロが原因だ。

保元の乱で敗れた崇徳院は仁和寺に逃れたが捕えられ讃岐へ流刑となった。
10年近く讃岐で過ごし46歳で亡くなるが、
生きながら天狗になったと伝えられ、怨霊の代名詞にされている。
3年を掛けて指から滴る血で5部の大乗経を写経し、都に納める事を望んだが許されず
恨みを募らせてその後は髪も切らず、髭も剃らず、爪も切らずに過ごし痩せ衰え
非道の呪いを企てているとだけ、都から来た者に告げたという。
更に舌の先を切って その流れる血で誓書を書き、海の底に沈めたと伝えられている。
小説「雨月物語」の中では西行の前に現れた崇徳院が
「平治の乱」は自らの祈りによって起こしたものだと告げた事が描かれている。
崇徳院の呪いも恐るべしだが…
その呪いの中で生き延び、長きに亘って法皇として君臨した後白河に
何とも言えぬ恐ろしいモノを感じるのは私だけだろうか?
私の愛する頼朝も、後白河院を「大天狗」と呼んだ…
掴みどころの無い言い知れぬモノを頼朝もきっと同じていたのだろう。
posted by KANCHI at 17:23| Comment(2) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月22日

源頼朝の時代背景 その11

源頼朝が扱いに困ってつぶやいた「大天狗」。
正に頼朝は、そして源氏はこの大天狗に振り回された。
しかし、大天狗になったのには後白河帝にもそれなりの理由がある。
生まれた時からずっと人を信じる事など無かったのではないだろうか?
他人はもとより本来信じれるべき家族さえも信じた事など無かっただろう。
・・・頼朝もその生い立ちから疑い深い性格だが
さすがの頼朝も後白河には負けるかも知れない。
ドロドロな血筋が後白河帝の性格をつくりあげた。

鳥羽は親子でありながら崇徳と仲が悪く
崇徳は兄弟で有りながら後白河と仲が悪い。
その理由はコレまで書いて来た通りだ・・・
しかし天皇家のドロドロはそれだけに止まらない。


posted by KANCHI at 21:16| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月19日

源頼朝の時代背景 その10

源頼朝の生涯に大きく関わりを持つ天皇と言えば
何と言っても「大天狗」と頼朝が呼んだ後白河だろう…
いよいよ今回はその重要人物の出番が来た。

鳥羽院にとっての本当の子供 体仁(なりひと)親王はたった3歳で即位したが
器量も性格も頭脳もとても良く、周囲からこよなく愛された。
しかし近衛天皇は身体が弱く病との縁が切れなかった。
そして眼を患った事が原因で17歳の若さで亡くなったのである。
近衛天皇が即位した時、無理やり退位させられた崇徳院は
我子 重仁(しげひと)親王に次の皇位が与えられると期待したが
鳥羽院がそれを許すはずもない。
近衛の後はいよいよ77代後白河天皇の登場だ。
鳥羽院の第4皇子、母は崇徳院と同じ璋子(しょうし)異父兄弟である。
もうドロドロもここまで来ると理解し辛いレベルだ。
posted by KANCHI at 20:31| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月15日

源頼朝の時代背景 その9

源頼朝の父の時代に起こった保元の乱は
元々このドロドロ劇の末に起こるべきして起きた乱である。
まさに天皇家の血筋の乱れに乱れた「乱」と言っていいだろう。
祖父である白河院に逆らわず、言われるがまま
摂政 藤原忠実(ただざね)の娘 勳子(いきこ)を諦め
白河院の勧めるがまま
祇園女御が育てた養女 藤原璋子(しょうし)を皇后として迎えた鳥羽院だったが
その白河院が亡くなると鳥羽院の逆襲が始まった。
一旦は諦めさせられた勳子を2人目の皇后として迎え
更に中納言 藤原長実(ながざね)の娘 得子(とくし)を3人目の皇后とした。
さらに得子が男子を産むとこの子を3歳で即位させた。
体仁(なりひと)親王のちの近衛(このえ)天皇である。
勿論、叔父であり子でもある崇徳天皇は退位させられた。
posted by KANCHI at 21:06| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月12日

源頼朝の時代背景 その8

源頼朝の運命を左右したのは白河院だと言っても過言ではないだろう。
白河院の行いが鳥羽上皇と崇徳天皇の憎悪を作りだした。
表向きには父と子、現実には甥と叔父の関係なのだから話しはややこしい。

少し前に
白河院の後妻 祇園女御が育てた養女 藤原璋子(しょうし)後の待賢門院(たいけんもんいん)
白河院は初め摂政 藤原忠実(ただざね)の息子 忠通(ただみち) に嫁がせようとしたが 断られた。
事は書いたが、その仕返しのつもりか、その藤原忠実がその後に
娘の勳子(いきこ)を鳥羽天皇に嫁がせようとした時、
白河院はこれを阻止し、強行に藤原璋子を嫁がせたのである。

白河院が亡くなった後も璋子は子供を沢山産んだが、
鳥羽院は白河院への恨みを晴らすかのように以前 阻止された勳子を皇后として迎えた。
この勳子には子は産まれなかったが、その後鳥羽院は
中納言 藤原長実(ながざね)の娘 得子(とくし)後の美副門院(びふくもんいん)
更に皇后として迎え3人の妻を持ったのである。
2人目の妻は女御として迎えるのが通常だが鳥羽院は3人を皇后とした・・・
これは明らかに白河院への逆襲だろう。
抑え付けられてきた鳥羽院の反動が更にドロドロを産み
頼朝の運命も左右されていく。
posted by KANCHI at 18:16| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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