2011年12月08日

源頼朝の時代背景 その7

源頼朝は天皇家のドロドロをどこまで知っていたのだろうか?
頼朝に限らず、当時の武士は天皇家を実はどう見ていたのだろう?
権威ある天皇の真実を知る術はあったのだろうか?

前回は白河院に頭が上がらないまま天皇となり
白河院の薦めるまま中宮を迎えた孫の鳥羽帝の話しまでしたが、
そして間もなく皇太子 顕仁親王(あきひとしんのう)のちの崇徳天皇(すとくてんのう)が産まれ
鳥羽帝がその子を「叔父子(おじご)」と呼んでいたところまで話した。
その叔父子が、5歳で皇太子となると鳥羽帝は21歳で退位させられ上皇となった。
上皇となったからと言って鳥羽院に権限は無い。
鳥羽院は「新院」と呼ばれ、その上には相変わらず「本院」と呼ばれる白河院が君臨していた。

鳥羽院が気の毒に思えるのは私だけだろうか?
父である堀河帝が亡くなっても祖父である白河院に振り回され
何を決める事も、何を断る事も出来ないまま即位させられた。
しかし大治4年(1129)白河院崩御をきっかけに
鳥羽院の逆襲が始まるのである。
posted by KANCHI at 17:49| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月05日

源頼朝の時代背景 その6

源頼朝も大きく関わる事になる天皇家は
暗黙の了解な秘密だらけの組織だ。
その口に出せない秘密に多くの武士が振り回され
日本の歴史は創られて来たのだ。

白河院の後妻 祇園女御が育てた養女 藤原璋子(しょうし)後の待賢門院(たいけんもんいん)
白河院は初め摂政 藤原忠実(ただざね)の息子 忠通(ただみち) に嫁がせようとしたが 断られた。
どうやら藤原忠実は藤原璋子がすでに白河院の御手付きであった事を知っていた様である。
そこで仕方なく孫の鳥羽天皇の後宮とした。
15歳の鳥羽天皇には断る事など出来はしない。
その上 中宮となった後も璋子のもとに白河院は通っていたらしい。
そして璋子は顕仁親王(あきひとしんのう)後の崇徳天皇(すとくてんのう)を産むのである。
白河院は鳥羽帝にとって祖父だから祖父子(そふご)と呼ぶ事も出来ただろうが
祖父の子である崇徳を、父 堀河の弟として嫌味を込めたからだろうか?
崇徳の事を叔父子(おじご)と呼んだ…叔父でもあり 子でもあると言う意味だったのだろう。
呼び方だけで、その複雑な関係と気持ちの中が見て取れる。
はたして鳥羽は我子 崇徳を可愛いと思った事が1度でもあっただろうか?
まさにドロドロだ。
posted by KANCHI at 14:21| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月01日

源頼朝の時代背景 その5

源頼朝をはじめ、義経も義仲も負けず劣れず
かなりの数の女性に手を出したと思われるが
何にでも上には上がいるものだ・・・。
勿論それは、白河天皇の事である。
34歳で退位し その後56年間を法皇となって
政を司ったが・・・司だったのは政だけではなさそうだ。
どうやら白河院は両刀使いだったらしいく、
手を出したのは女性だけでは無かったと言われている。
頼朝がその点はどうだったのかは知らないが、そう考えると
どう頑張っても数ではこの人に勝てそうにない。
祇園女御が養女として育てた藤原璋子(しょうし)にまで手を出し
それを自分の孫にお古として与える・・・
その本当の目的は何だったのか?
自分の血を残すためだったのだろうか?
しかし結果としてその行為が血で血を洗うことになっているを見ると
単なる飽き性の身勝手極まりない行動に思えてならない。
もしも自分が祇園女御だったら?藤原璋子だったら?
孫の鳥羽天皇だったら?と思うと何とも居た堪れない。
posted by KANCHI at 09:42| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月28日

源頼朝の時代背景 その4

源頼朝の最大の敵は弟 義経でもなければ武士でもなかっただろう。
頼朝が生涯戦い続けたのは おそらく朝廷だったに違いない。
頼朝を知るためには そも最大の敵を知る必要がある。

平清盛が実は白河天皇の子だったという話しは前回までにしたが、
この白河帝は34歳で退位し その後56年間を法皇となって政を司った。
73代 堀河天皇の事は前にも書いたが、
白河帝が最も寵愛した藤原賢子(けんし)との間に生まれた2番目の子で
8歳で即位したが29歳で病で亡くなった。

74代 鳥羽天皇はこの堀河天皇の子で5歳で即位した。
妻は2人の皇后と1人の中宮で3人いたが、特に有名なのが中宮 藤原璋子(しょうし)
あの平清盛の母 祇園女御が藤原公実(きんざね)の娘を養女として育てた子で
後に待賢門院(たいけんもんいん)と呼ばれた。
15歳の鳥羽天皇に嫁いだがすでにこの時 白河院の御手付きで嫁いで間もなく男子を産んだ。
それが75代 崇徳天皇である。

鳥羽帝は我子では無いこの子 崇徳(すとく)「叔父子(おじご)」と呼んでいた。
話しはかなりドロドロして来たが、ここまでは上手くご理解頂けているだろうか?
posted by KANCHI at 15:58| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月24日

源頼朝の時代背景 その3

源頼朝の人生を最も左右した人物 平清盛が
実は白河天皇の子だったのではないかという処まで前回は話したが、
その話しが真実味を増す 話しが伝えられている。
白河天皇に仕え御所の警護をしていた平忠盛は、
祇園女御が子供を産んだ事やその成長の様子を事ある毎に歌を詠んで報告し、
また天皇も、歌で答えていたと言う。
ある時、夜泣きがひどく大変だと噂に聞いていた天皇は
 「夜泣きすと ただもりたてよ 末代に
   清くさかぶる 事もこそあれ」

と忠盛に歌を詠んだ。
…夜泣きしても ただ守りをしておくれ忠盛よ 後にはきっと清く盛える事になるであろう。
という意味の歌で、この歌を贈られた忠盛がその子に「清盛」と名付けたそうだ。

清盛の母 祇園女御は派手好きでワガママな女性だったらしい。
新しい着物を強請り金遣いも荒く、清盛はそんな母を嫌っていたが
不思議な事に父 忠盛は1度もそんな母をとがめる事はしなかった。
父を慕い尊敬しながら成長した清盛はやがて本当の父親の名を知る事となる。
清盛は以前にも増して忠盛への想いを強くした。
その父が心を許し通わせた女性が居た。
それが 藤原宗子…後に忠盛の後妻となり清盛の義理の母となる池禅尼 (いけのぜんに)である。
辛い立場の父 忠盛を陰で支えた女性として清盛は感謝し
実の母親よりも池禅尼を大切にした。

ドロドロの続きはまた次回に。(^_-)/"
posted by KANCHI at 12:58| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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