2011年11月21日

源頼朝の時代背景 その2

源頼朝の生まれる少し前の天皇のドロドロについて触れておこう。
第72代白河天皇にはこよなく愛する妻(中宮)が居た。
時の関白 藤原頼通(よりみち)の養女 賢子(けんし)である。
20歳で即位した白河帝に15歳で嫁いだ。
二人の間には2男3女が生まれたが最初の男子 敦文(あつぶみ)
三井寺の頼豪(らいごう)の呪詛により3歳で亡くなったと言われている。
次に生まれた男子 善仁(たるひと)が後の73代堀川天皇となる。
厚い寵愛を受けた賢子は28歳の若さで亡くなった。

賢子亡きあと白河帝の寵愛を受けたのが白河殿と呼ばれた祇園女御である。
祇園の西大門の近くで水汲みをしていた女性が白河帝の目にとまったとされるが
詳しい素性は分からない女性で とにかく美貌の持ち主であったらしい。
しかし後に御所を警護していた北面の武士 平忠盛(たいらのただもり)
褒美として与えられたとされている。
この時 祇園女御はすでに白河帝の子を懐妊していたとされ、
生まれてくる子が女の子なら引き取り育てるが、
もし男の子ならば忠盛の子として武士にする様にと言われたと平家物語には描かれており。
後の平清盛だという・・・。
話しはまだまだ続くが、すでにドロドロし始めた。

posted by KANCHI at 16:05| Comment(1) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月14日

源頼朝を利用した?された?

源頼朝の人生の転機に文覚は現れた。
それまで、大雑把な空想話しでしかなかった源氏再興を
具体的にしたのが文覚だったかも知れない。
従兄弟の木曽義仲のもとに足を運んだのも文覚だったとされているし
福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させたのも
文覚だったと言われている。

文覚によって具体的に見えて来た源氏再興。
おそらく頼朝はその文覚の行動力に押され後に引けなくなったのではなかろうか?
それと同じ時期に頼朝の周りに集まる人々の期待も大きくなり
戦いの準備が進められた…。
文覚にはどうやらエリートを嫌う傾向があった様だ。
崇徳院に仕えた西行や、共に学んだ事のある平清盛を嫌っていた。
だから頼朝に惹かれたのかも知れない。
源氏の御曹司でありながら流刑の身となった頼朝。
本来なら最もエリートな頼朝を 清盛をギャフンと言わせるために選び、
見事にその望みを叶えた。
頼朝は文覚に利用されたのかも知れない。
posted by KANCHI at 17:51| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月10日

源頼朝がガサツなら?

源頼朝が、もしも本当に文覚を慕い必要としていたなら
いったい文覚の何に そんなに惹かれたんだろう?
もしかすると文覚は、私達が知るほどガサツでは無かったかも知れない。
若き日に袈裟御前を誤って殺し、出家に至ってからの文覚は
ガサツではなくなっていたのか?
それともよ頼朝にとって、自分とは余りにも違い過ぎるキャラに強く惹かれたからか?
突然 現れて、源氏の御曹司に少しも怯む事無くデカイ態度の文覚に
或いは呆気にとられてしまった可能性もある。
何しろ周りは自分に遠慮してオドオドする者ばかり…
頼朝はそのギャップを楽しんでいたかも知れない。

もう一つ考えられる可能性としては
私達が思い描くほど頼朝自身が繊細ではなく
ガサツの男だった。かも知れない。
もしそうなら、もう一度初めから頼朝を知る必要がある。
posted by KANCHI at 15:15| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月07日

源頼朝とガサツ文覚

源頼朝の性格を知る者としては、妻の北条政子を越えているかも知れない
と思っている私にとって、文覚の存在は不可解で不愉快である。
頼朝の気持ちを源氏再興の決心にまで導き、4年もの間 共に暮らしたなんて
どうしても信じがたいし、認めたくない。
繊細で慎重な頼朝がガサツな性格の文覚と同じ屋根の下で暮らす事を
望んだはずもないし、本当に共に暮らしたとするなら
文覚が一方的に押しかけてきて住み着いたに違いない。
頼朝がそれを受け入れたのは文覚が頼朝の父 義朝の頭蓋骨を持参したからだろう。

源氏の嫡男でありながら命拾いし、父や兄の冥福を祈って
読経に明け暮れていた頼朝にとって、その遺骨の存在が
どれほど大切なものだったか…と言う事だ。
文覚はそこに付け込み、自分の存在を示した。
頼朝が断れない様にしたのだ…。

4年もの間 居座る文覚に頼朝が慣らされたかどうかは分からないが
もしかすると文覚を追い出したくて頼朝は源氏再興を決断したかも知れない。
これは私個人の あくまでも推測である・・・それも
文覚が本当にガサツな性格だったらを前提にした推測だ。
posted by KANCHI at 13:44| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月03日

源頼朝の説得に4年?

源頼朝が読経の流刑生活から抜け出す決心をしたのは
文覚との出会いだと伝える説がある。
文覚に出会う以前にも蛭ヶ小島の頼朝のもとには
多くの者が足を運び、源氏再興を訴えているが
頼朝は動かなかった・・・それは事実だ。
しかし、行動には起こさなくても頼朝の心は動いていたと
私は思っている。
現実には、勿論分からないし、知る余地もない。
例え現代に生きる私達出なくても、頼朝の時代に生き、頼朝に対面した者でも
頼朝の心の中までは分からなかったはずである。

文覚は頼朝と同じ伊豆の地に流刑となり、頼朝に会いに来た。
そして4年の歳月を共に過ごしたと伝わるが…
となると文覚が源氏再興を打診したのはいつの事だろう?
小説やドラマの中ではいきなり頼朝のもとに文覚が現れ、
頼朝の父 義朝の頭蓋骨を見せて説得にあたった様に描かれている事が多いが
では、共に暮らした4年は、
その気にならなかった頼朝を説得させるための4年間だったのだろうか?

それとも4年間を共に暮らし、頼朝を見込んでからの
最後の切り札として見せたモノだったのだろうか?
ドラマチックな話にするためにどの部分が噓で描かれているのだろう?
どちらを思い浮かべてもしっくり来ないのは私だけだろうか?
posted by KANCHI at 17:41| Comment(0) | 頼朝の裏ばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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