2011年08月04日

源頼朝が継いだ戦い

源頼朝の兄 義平は「叔父殺し」で有名だった。
久寿2年(1155)その義平が15歳の時、義朝(兄)と義賢(弟)が戦った。
義平は叔父 義賢を討った…悪源太と呼ばれる様になった由縁(所以)だ。
と、一般的には言われている定説だ。
しかし悪源太の「悪」はこの時代、「強い」という意味で使われた文字らしい。
特別な事では無かった・・・・
名前に「悪」を使う事も、身内を討つ事も。である。

ずっと以前から源氏は身内同士で戦って来た、それが日常だ。
義朝の息子 頼朝と義賢の息子(木曽)義仲が同じ源氏でありながら
合い交える事が出来なかったのはこの時の戦の延長戦だったからであろう。
源氏がもし一丸となれたなら平氏を討つ事も簡単だったはずだが

一旦平氏に敗れて、その中で生き残って来た源氏は、
バラバラになる事で生きる方法を学んできた。
それぞれが平氏の味方に付く事で命を繋いで来た・・・
だから同じ一族であるはずの何処かの源氏が平氏打倒を志しても
それは他人事でしかなかったのだろう・・・
考えてみれば、悲しい一族である。
敵と戦う時も、天下の頂点に立ってからも源氏は一丸となる事が出来なかった。
だから源氏は3代で終わったのだろう。
posted by KANCHI at 11:00| Comment(0) | 頼朝の戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月29日

源頼朝をゲット!?

源頼朝の政子に対する思いにずっと長い間 疑問を抱いていた・・・。
北条政子が思うほど頼朝は政子を愛していなかったのではないか?
政子には悪いが同じ女として頼朝の態度に そう感じずにはいられない。
最もそう感じたのは やはり山木兼隆との事だった。
政子が山木兼隆に輿入れさせられ脱走したのが治承元年(1177)
頼朝が山木兼隆を討つ旗挙げをしたのが治承4年(1180)8月17日と
3年も後になって恋敵を討つ頼朝の気持ちがどうしても分らなかった。
恋仇が理由なら直ぐに戦うべきだろう?
しかし山木兼隆への輿入れ そのものが無かった事なら仕方ない。
山木兼隆が最初の敵として選ばれた理由には疑問が残るが
「3年後」の謎は解けた。

政子の周囲の男達は自分たちの野望の為に頼朝と政子を必死で結ばせようとしたが
政子の妹など周囲の女達は何をしていたのだろう?
「お姉さま・・・お気を付けあそばせ」と忠告する者は居なかったのだろうか?
むしろ既に二十歳を過ぎ行き送れていた姉に
早く片付いて欲しいと言う思いの方が強かったのだろうか?
政子本人はモテモテ頼朝をゲットするのに必死で
自分がどれだけ愛されているか?冷静に判断する事は出来なかったらしい。
気付くチャンスは何度もあったのに・・・そんな風に思えてならない。
政子に満足していたら頼朝はあんなに度々浮気を繰り返しただろうか?
それとも・・・頼朝がタイガーウッズと同じ病気だっただけだろうか?
posted by KANCHI at 09:37| Comment(0) | 頼朝の戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月30日

源頼朝の意思 勝利

源頼朝の意思を継ぐ為 北条政子は尼将軍となった。
武士の結束が彼女の望みである。それは頼朝の望みであったはずだからである。
政子の弟 義時も執権として政子に従った。
頼朝亡き後、初めての 実力を持つ将軍の誕生となったのである。

承久3年(1221)後鳥羽上皇は順徳天皇を退位させ自分の御子に皇位を譲らせて、
上皇となった順徳と共に幕府打倒に踏み切り、全国に院宣を下したのである。
鎌倉に その報が伝わったのは4月19日、承久の乱の勃発である。
直ちに65歳の尼将軍は立ち上がり 皆を集めた。
集結した武士たちは政子の言葉に心を一つにした。
御家人たちは 頼朝に従い幕府を開くために奮闘した頃を思い出した。
本当の武士の力を見せる時である。

鎌倉軍はあらゆる街道から分かれて一気に京に攻め入った。
そして鎌倉軍は見事な勝利を果たしたのである。
後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡に配流となった。
頼朝の思いが、そして御家人たちの頼朝への思いが
鎌倉軍を勝利させたのではないだろうか?
これまで朝廷の権威に振り回され、朝廷の為に戦ってきた武士が
初めて朝廷を敵に回した戦いに鎌倉軍は勝利したのである。
それは歴史的快挙だった。
posted by KANCHI at 08:32| Comment(0) | 頼朝の戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月22日

源頼朝への使者

源頼朝に対する周囲の評価は、誰よりも頼朝自身が感じ取っていただろう。
源氏再興の為に他の誰よりも働き、功績を残した義経を鎌倉から追い出し奥州へと追いやった。
「何もそこまでしなくても」と家来達は思っているだろう。そして
「どこまでやるのだろう?」と不安を感じているだろう。
そんな世間の評価を頼朝も感じながら しかし後に引く事も出来なかった。
それでも弟 義経の方から戦を仕掛けて来るなら、その時は迎え討つしかない。
しかし その義経は藤原秀衡という後ろ楯を失い 攻めては来ないと分った。
自分への世間の評価を下げずに奥州を手に入れるにはどうしたらいいか?
頼朝は正当な理由で奥州を攻める方法を模索していたのである。
そんな時、藤原泰衡から使者が送られ「義経の首」が届いた。
言い訳の手紙も同封されている。
頼朝は神妙な趣で義経の首を確認すると表情も変えずに決断した。
「奥州 藤原氏を討つ」と・・・そして奥州からの使者を全て斬り捨てた。
頼朝の頭に浮んだのは時間が経てば奥州を討つ正当な理由が無くなるという事だった。
畠山重忠を総大将とする7万余騎が奥州へ向かい奥州藤原氏は滅亡した。
遂に頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし事実上 全国の頂点に立ったのである。
posted by KANCHI at 11:38| Comment(0) | 頼朝の戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月22日

源頼朝の戦「壇ノ浦」その4

源頼朝の敵「平氏」は壇ノ浦で海に沈み滅亡した。
その壇ノ浦で最後まで源氏の強敵だったのは清盛の甥 教経(のりつね)である。
清盛の3人目の弟 教盛の次男 教経は屋島の戦いでも 五人張りの弓で義経を狙い
義経の家来 佐藤嗣信(さとうつぐのぶ)を射抜いた事は前に書いたが、
壇ノ浦でも最後の最後まで義経を追い詰めた。
教経は義経の顔は知らないが、戦いの様子やその身のこなしから義経を探し出すと
その船に近付いた。そして義経の船に飛び移ったのである。
もしも取っ組合いになれば 小柄な義経が不利である事は誰が見ても明らかだった。
大男 教経が自分の船に飛び乗ったのを見た義経は急いで 味方の船に飛び移ったのである。
身軽な義経はポンポンと隣の船、更に隣の船と飛び移り、
その身軽さに教経は身の終わりを悟った。
鎧を脱ぎ捨て 両手を大きく広げた。そして敵の家来を両脇に抱え海に飛び込んだのである。
その壮絶な死に様に源氏の武将も唖然とした程である。
この時の義経の船から船へと飛び移った様子は 後に「義経の八艘(はっそう)飛び」として
知られる事と成った。

総大将の平宗盛 父子が捕虜となった事を知った弟 知盛は全てを見届けた。
そして 自らの責任を全て果たし終えたと悟ると死者の鎧を更に纏うと海に沈んで行ったのである。
夕暮れの壇ノ浦には平氏の赤旗と無数の死体が静に波間を漂っていた。

 「(おご)れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し
  (たけ)き人も遂には滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」である。

 『平家物語』より

栄華を極めた平氏は遂に滅亡したのである。
弟 義経の力を借り、源頼朝は敵を滅ぼした。
しかし それは鎌倉を中心にする武士の世の ほんの始まりでしか無かったのである。
posted by KANCHI at 00:31| Comment(0) | 頼朝の戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。