2008年05月19日

源頼朝の戦「壇ノ浦」その3

源頼朝の敵「平氏」は滅亡の時を迎えようとしていた。
御座船の平清盛の妻 時子は 三種の神器の八坂瓊(やさかに)の勾玉を脇に挟み、
天の叢雲(むらくも)の剣を腰にさして 僅か8歳の安徳天皇を抱き上げた。
幼い安徳天皇は「何故 海に沈むのか?」と無邪気に尋ねられた。すると時子は
「波の下には極楽浄土という都がございますので 尼がそこまでお供いたします。」と答え
経を唱える様 促がした。
幼い天皇は促がされるまま東の伊勢神宮の方角に一礼し、
西の極楽浄土に向かって経を唱え始めた。
その声に女官達は共に手を合わせ涙を流した。
時子は共に経を唱え、天皇を抱いたまま海に身を投じたのである。
それを見届けた女官達も遅れをとるまいと次々と飛び込んだ。

清盛の弟 経盛教盛は鎧の上に碇を背負って海に飛び込み、
清盛の孫 行盛も碇を抱えて沈んだ。
次から次へと平氏は海に沈んでいったが、その中に死に切れない父子がいた。
それは清盛の3男 宗盛とその嫡男 清宗である。
清盛亡き後、平氏の総大将となった あの宗盛父子は
船の上から皆の様子を唯うろたえながら見ていた。死ぬ覚悟も出来ていない。
家来達は その総大将の姿に落胆した。
源氏の船が近付き、せっぱ詰った宗盛父子は家来に促されて海に飛び込んだが
他の者達とは違い 重い物も持たず泳ぎも得意だった為、ただ波間に浮んでいる。
親子はお互いの顔を見合いながら波間に漂い、助けられるのを待っていた。
そして源氏の伊勢義盛によって熊手で引き寄せられ捕虜となったのである。

もう1人 自ら捕虜となった人物が居た。それは清盛の義理の弟 平時忠である。
大納言となっていた時忠は三種の神器の一つ 八咫(やた)の鏡を源氏に差出し、
美しい事で定評のある自分の娘 蕨姫(わらびひめ)を義経に差出す事で命乞いしたのである。
平氏の娘を嫁として迎えた事は 後に頼朝の怒りをかい、義経の運命を左右する事になる。
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2008年05月15日

源頼朝の戦「壇ノ浦」その2

源頼朝の敵「平氏」の中に民部重能(みんぶしげよし)という家来がいた。
ここ3年ほどの間、忠実に平氏に仕えた人物だったが、
戦の朝、重能の様子はいつもと違っていた。
その事に気付いた平清盛の四男 知盛は 兄である総大将 宗盛
「重能の首を刎ねる様に」と申し出た。
宗盛は、重能を呼付けはしたが「命の限り戦え」と申し付けただけだった。
明らかにおかしな重能の態度に知盛は 念を押して宗盛に申し出たが
兄 宗盛は「証拠も無く家来の首を刎ねる事は出来ない」と告げ、知盛を落胆させた。

源氏と平氏は向かい合い、一斉に両者の矢が射られた。
壇ノ浦の決戦の火蓋が切られたのである。
勝敗の行方は潮の流れに掛かっていた。
午前中であれば潮の流れは西から東へ平氏軍が源氏軍に攻めかかるに適している。
しかし午後になれば潮の流れは逆になり、源氏が平氏を攻めるのに適する方向に変わる。
午前中に戦を終えなければ、平氏の運命は潰えてしまうのである。
平氏は攻める潮の流れに優勢に思えた。しかし勝敗は付かない。
そして戦は長引き、潮の流れが変わった。その時、重能が源氏に寝返ったのである。
平氏は立派な唐船には雑兵を乗せ、小舟に精兵を乗せ、敵の目をくらます作戦を取っていたが
その作戦は源氏に寝返った重能によって明らかにされ一気に不利な状況となった。
平知盛は悔しがったが、どうする事も出来ない。
平氏の敗戦はもはや時間の問題だったのである。

知盛は運命の終りを悟り安徳天皇(あんとくてんのう)の御座船に小舟で向かった。
御座船には安徳天皇を始め、その母に当たる建礼門院 徳子
そして祖母に当たる 二位の尼 時子が乗っている。知盛にとっては 妹と母である。
知盛は 母 時子に平氏の負けを伝えた。
周りに居た女官たちは その様子に気付き、船の中は騒然となった。
そして時子は まだ幼い安徳天皇を抱きかかえたのである。
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2008年05月12日

源頼朝の戦「壇ノ浦」その1

源頼朝は天を味方に付けて流刑の身だったあの日から僅か5年の間に一気に敵を追い詰めた。
今や源氏の勢いは止まらない。
そして この勝敗に大きな影響を与えていたのは瀬戸内海の水軍であった。
瀬戸内海には沢山の島がある。その為、地元の水夫でなければ船を操る事は出来なかった。
そこに早くから目を付けていた平清盛は海外貿易で利益を得る為、
瀬戸内海の水軍と手を組んでいた。
外国からの大きな船を九州に着け、瀬戸内海は地元の水軍の船に荷を積み替えて運ばせる。
水軍は平清盛から仕事を与えられ、その代わり戦の時には巧みに船を操り水軍として活躍する。
そんな両者の関係が出来上がっていた。だから平氏は海での戦いにたけていたのである。
しかし海外貿易で富を築いた平清盛は、更に大きな利益を得る為、
福原(神戸)に大型船が直接 接岸出来る港を造り、そこに都を造ろうとした。
それは水軍に与えていた仕事を無くするという事である。
平氏と水軍の関係は崩れ、徐々に瀬戸内海の水軍は源氏に寝返って行ったのである。
今や源氏の船は3千艘、平氏の船は千艘余りとなっていた。
天と水軍を味方に付けた源氏は壇ノ浦で決戦の日を迎えたのである。

海から攻める義経軍と陸から向かった範頼軍は周防の地で合流したが
義経の率いる圧倒的な軍船の数に範頼も梶原景時も驚いた。
元暦2年(1185)3月24日の朝、梶原景時は義経に「先陣を務めたい」と申し出たが
義経は その申し出を断った。
屋島での戦いにも遅れをとった梶原景時に先陣など任せられない。と義経は思った。
梶原景時が「大将軍 の貴方自身が先陣をとるなど筋違いであります。」と言うと
義経は「大将軍は鎌倉にいる兄 頼朝殿、私は奉行に任ぜられた貴方と同格である。」と答えた。
返す言葉を失った梶原景時は「生まれつき義経殿は主の器では無いお方だ」とつぶやき
再び両者の詰り合いとなった。お互いの家来になだめられ一先ず喧嘩は収まったが
2人の関係は更に険悪なものとなり、修復の余地は無かったのである。
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2008年03月10日

源頼朝の「富士川の戦い」

源頼朝は10月16日 鎌倉を出発した。
一方 平維盛は駿河国に入り富士川に向かっていたが その足取りは重い。
福原を出てから源氏の噂をあちらこちらで耳にする、近付く度にその噂は脅威となって行った。
特に頼朝軍の数に関しては、聞く度にその数を増し、5万とも10万とも聞き及んだ。
おまけに関東武士の斉藤実盛に平維盛が源氏について訪ねると
「坂東の武者は騎馬に優れ 弓の名手が多く 死を恐れず、
たとえ10人の関東武者に200人の京武者が掛かっても敵わないだろう」と言った。
出来る事なら戦いたくは無い・・・それが平維盛の本音であり、平氏軍全員の気持ちだったに違いない。

更に不運は続く、味方に付くはずだった大庭景親の1千騎は10月18日、
足柄峠で想像以上に膨らんだ源氏の大軍に遭遇し恐れをなして逃げ帰った。
また、海路から合流するはずだった伊東祐親・祐清の軍は19日、捕らえられた。
そんな報せが平維盛にもたらされる。
「勝てるはずが無い」「怖い」「帰りたい」・・・・・
そんな気持ちで迎えたのが治承4年10月20日「富士川の戦い」である。

あの「平治の乱」の後、平氏は天皇との関係を深める事で権力を手にし、政治を動かしていた。
「平家」である事におごり、武士として、まともな「戦」を経験していない。
そんな平維盛に、戦が出来るはずが無かったのである。

両軍は富士川を挟んで陣を置いた。
源氏軍の先頭にいた甲斐源氏の武田信義は平氏の軍を挟み撃ちにしようと僅かに動いた。
すると富士川に羽を休めていた水鳥の群れが一斉に飛び立ったのである。
その水鳥の羽音に平氏軍は驚いた。
「源氏の大軍が攻めて来た!」と勘違いをし、我先にと逃げ出したのである。
戦う事無く・・・源氏軍は勝利したのである。

続きは次回。

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2008年03月01日

源頼朝の「石橋山の戦い」

平治の乱(1159)から時は流れ源氏再興へと時代は動き出していた。
その最初の戦いが治承4年(1180) 8月23日「石橋山の戦い」である。

「流刑人 源頼朝が伊豆の判官 山木兼隆を襲撃した!」の報せは
直ぐに周辺の平氏に伝わった。
特に相模の大庭景親(おおばかげちか)は真っ先に動いた
頼朝は300騎を率いて石橋山に向かったが
敵はその10倍以上の3千騎を率いて頼朝軍に襲い掛かかり、
頼朝は多くの家来を失う結果となった。
その中には北条政子の兄、宗時もいた。頼朝と政子を結んだ あの兄である。
この戦いで北条一族は頼朝の支援者として戦っている。
以仁王の令旨を得てからは父 時政も覚悟を決めて頼朝に運命を委ねたのである。
思えば12歳の時、父 義朝に従い出陣した「平治の乱」以来
頼朝にとっては初めての戦いである。
「志」だけでは戦には勝てない事を思い知らされた。
頼朝軍は敗退し散り散りバラバラとなった。
頼朝は僅かな家来と山の中に逃げたが、どこに逃れても周りには敵が多すぎる。
自分の為に命を落とした家来の事を思うと泣き崩れ絶望し、死を覚悟した。
洞窟に身をひそめ自害しようとしたその時、洞窟の外に物音がした。
一行は息を殺し、近付いて来る男に目をやった・・・
その男は平氏方の梶原景時である。

続きは明日。
posted by KANCHI at 23:49| Comment(0) | 頼朝の戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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