2011年07月18日

源頼朝のいない鎌倉時代

源頼朝の暗殺計画も、その裏に隠された北条時政暗殺計画も
あくまでも仮定の話しでしかない。
何故なら、どちらも殺される事は無く、計画は失敗に終わったからだ。
しかし、実朝暗殺は実行された。
それは仮定の話しではない。紛れもない事実である。
ただし、実朝暗殺計画の、そも裏に隠されていた北条義時暗殺計画は
またもや仮定の話しである。
あくまでも仮定の話しではあるが・・・現実だっただろう。

殺されようとした北条義時。殺そうとした三浦義村。
2人は幼い頃から 親戚で友人で、お互いを知り尽くしてきた。
家庭環境も性格も思想も、お互いの立場も よく知っていたからこそ
三浦義村は北条義時を恐れ、殺すなら今しかないと思ったのだろう。
しかし計画は失敗に終わった。
殺されようとした男は殺そうとした男を
結論として許し、そして助けた。

それはお互いを知り尽くしていたからだろう。
そしてこの時、新たな二人の関係が出来た。
三浦は北条をこれまで以上に恐れる事になる。
しかしその一方で二度と裏切らないと 心で誓う事になっただろう。
北条が表に立ち、三浦が裏でそれを支える。
そして この2人によって長い長い鎌倉時代は創られて来たのである。
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2011年07月14日

源頼朝を見つめ続けて

源頼朝に寄生しないと決めていた北条義時と
まるで同じ姿勢を貫いていた一族がいる。勿論「三浦」の事だ。
前にも話したが三浦一族は坂東の大豪族である。
三浦から分家し新たな氏を名乗る一族も多く滅亡させられた和田氏もその1つである。
三浦の名は今も三浦半島で知られ地名となっている事からも
一族の大きさを想像する事が出来る。
規模から言えば北条など比べものにならない。

この三浦一族が流刑人 頼朝に味方し平氏と一戦を交える覚悟を決めた事で
多くの坂東武者が同調した。頼朝の運命を左右したのである。
しかし頼朝のそばにいた北条が結果 権力を手にした。
三浦から見ればそれは、頼朝に寄生している様に見えたかも知れない。
周りの豪族達が頼朝に寄生しようともがいている様子を三浦はただひたすら
冷静に見ていた。そして決めていた・・・
「我一族だけは寄生しないでおこう」と・・・。

もしかすると北条の中に居ながら、義時だけが
頼朝に寄生するのを嫌ったのは、三浦義村という
一族の姿勢を示し貫いた友人がそばにいたからかも知れない。
頼朝亡き後の幕府を支えた2人の姿勢は同じだったはずである。

自分を暗殺しようとした相手を目の前にして義時は何を思っただろう。
出来る事なら友を助けたいと思ったのだろうか?
2人の不思議な関係にとても心惹かれる。
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2011年07月07日

源頼朝も過ごした御所で

源頼朝も 頼家も実朝も将軍として時を過ごした事のある御所に
今は将軍はいない…。みな殺された様なものである。
その将軍よりも長く、ここで時を過ごして来た男がいる。
むしろ、この男の方が歴代の将軍達より御所を知り尽くし
ここに居るのにふさわしいかも知れない。

何故なら彼が、将軍よりも鎌倉幕府を動かして来たからだ。
その男とは、勿論 執権 北条義時の事である。
時の将軍 実朝が暗殺され、その報告を義時は
三浦義村から受けている・・・そんな不思議な光景が繰り広げられている。
何故なら・・・暗殺計画はおそらく、この報告者本人によるものだからだ。
そして、計画通りなら、報告される相手が違っていたからだ。

どんな思いで三浦義村は、死んでいるはずの義時に、
いや、殺しているはずの義時に、事件の報告をしたのだろう?
そして義時もまた、どんな思いで自分を殺そうとした男から
その報告を聞いたのだろう?

決して本音は言わず、ただ淡々と噓だらけの事件報告がされていた。
そして義時は命令を下す。
現実には「殺せ」ではなく「捕えよ」と言ったのかも知れない。
いや、そう言えば三浦義村が困る事を知っていて、
あえて「殺せ」と言ったのかも知れない。
例え義時が「捕えよ」と言ったとしても義村は公卿を殺していただろう。
公卿を殺すしか他に三浦が生き残る方法はなかったからだ。
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2011年06月30日

源頼朝ラベルチェンジ!?

源頼朝が将軍だった時から北条は執権だった。
北条義時の父 時政の事だ…。
源頼朝も実は、北条には頭が上がらない。
流刑人だった頼朝に加勢し、共に戦い・・・
若き日には命の恩人だった事もある。
そして妻 政子の父である。…頭が上がるはずがない。
「執権になる」と義父が言えば、
頼朝に「駄目です」と言う勇気は無かっただろう。
しかし自分の死後、鎌倉幕府がどうなるか?
北条がどうなるかを頼朝は考えていただろうか?
執権政治と呼ばれる時代が来る事を想像し得たであろうか?
・・・まさか北条が自分の家来達を次々と消し去り
鎌倉幕府の中心となろうとは・・・。
それとも 大体はお見通しで、そうなる事を喜び望んでいたのだろうか?
もしそうなら頼朝は 想像以上の切れ者だったと言うしかない。
鎌倉幕府の新ラベルは北条となったが100年もの長い間、新ラベルは続く。
しかし人々に親しまれ、恋しがられたのは頼朝ラベルの幕府だっただろう。
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2011年06月27日

源頼朝というイメージラベル

源頼朝が鎌倉幕府を開いた事は確かだが
当時の武士たちは、そんな風に思っていただろうか?
流刑人だった源頼朝を救ってやったのは
むしろ自分達 坂東武者の方だと、
心のどこかで思っていたのではないだろうか?
しかし、源氏の御曹司という肩書きを持つ頼朝を
鎌倉幕府のパッケージラベルのキャラクターに使用すれば
幕府の重みはグンと増し、その価値も上がる。
それを彼らは知っていたのではないだろうか?
頼朝の死は、彼ら坂東武者にとっては
安定した売れ行きの商品のラベルのデザインを
一新するかどうかの瀬戸際の様なものだったかも知れない。
そして実は見慣れたラベルに飽き飽きしていた者が
存在していたかも知れない。

現実に鎌倉幕府は頼朝ラベルで世の中に出回り
誰もが知ってる定番商品となったが
意外とその時期は短い。
鎌倉幕府は頼朝時代よりも遥かに長く
北条の支配する時代を過ごすのである。
現在の私達が知る鎌倉時代とは、
北条氏の時代を指している。
posted by KANCHI at 02:22| Comment(0) | 源頼朝の死後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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