2011年03月14日

源頼朝は出来る?出来ない?

源頼朝は死ぬ間際まで自分の娘を後鳥羽院に嫁がせようとした。
始めは病弱な長女 大姫を・・・しかし大姫が病に倒れると
今度は次女の乙姫を・・・しかしどちらも叶わなかった。
娘を嫁がせる前に頼朝自身が亡くなり、
その後を追う様にして乙姫も病に倒れた。
後鳥羽院と頼朝の関係が上手く行っていたかどうか?
その心の内は分からないが、頼朝も野望に後鳥羽院が
気付かなかったはずはない。
もうずっと前から後鳥羽院は鎌倉と関わりを持ち
とても冷やかに幕府を見つめていただろう。
もし後鳥羽院が頼朝に行為を抱いていたとしても・・・
そうでなかったとしても、頼朝亡き後の幕府に
良い印象を持っていたとは想像し辛い。

後鳥羽院は文武両道の天皇として知られている。
いつの時代も「出来る者」にとって「出来ない奴」は
もどかしく、いらだつ存在に成り得る。
後鳥羽院にとって北条は「出来ない奴」に見えたのではないだろうか?
しかしこの時朝廷は幕府に実権を握られていた。
posted by KANCHI at 21:19| Comment(0) | 源頼朝の死後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

源頼朝の息子達を盾に

源頼朝の偉大さは誰もが知っていた。
しかし、その頼朝が突然この世から姿を消し、
人々は途方に暮れたであろう。
そしてその後の幕府は頼朝の息子たちに託された。
とは言っても・・・彼はに実権は無い。
源頼朝の名を借りて、その息子達を盾に鎌倉幕府を動かしたのは
いつも北条一族である。
その北条と並ぶ力ある豪族達は次々と姿を消してゆく。
消した・・・のではなく、消されたのだ。
鎌倉内の揉め事はその都度 都に伝えられ、
その度に朝廷は鎌倉の内輪揉めを楽しんでいただろう。
そして新たな挑戦者達が消される度に悔しがっただろう。
朝廷にとっても北条は成り上がり者だ・・・
しかしその成り上がり者はなかなかしぶとい。
飾り物の将軍も都者気取りで和歌を詠み・・・
壊れそうで壊れない幕府。
素知らぬ顔で次々に敵を消す北条に後鳥羽院は
どんな思いを抱いていたのか?
幕府が崩れない限り才能ある自分の力は発揮出来ない。
それが呪詛の理由だったのか?
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2010年08月05日

源頼朝が望んだもの

源頼朝を知るには頼朝の生き方と共に死後を知る事が重要だと思う。
生前に頼朝が目指したものが何だったのかを知り
頼朝の死後 その理想がどうなったのかを知る必要がある。

頼朝は武士を中心とする社会を目指し幕府を開いた。
それは亡き父の望みでもあり、それを叶える事が父への供養でもあった。
征夷大将軍になる目標を果たした頼朝はその後 何を目指したのか?
頼朝は朝廷を内側から変えたいと思っていたのだろう。
とは言ってもそれは容易な事では無い事を頼朝自身が最も感じていた。
「力」で押さえ付けるだけで変る相手ではない・・・
「北風と太陽」ではないが・・・変えるなら内側から。
死の直前まで頼朝が自分の娘を天皇に嫁がせようとしていた経緯から見ても
内側からジワジワと攻める作戦が見て取れる。
しかし大姫は病に倒れ、頼朝の死と同時に乙姫も亡くなり
嫁入りの話しは立ち消えとなった。
その後 幕府と朝廷の関係は冷ややかになってゆく・・・
事実は・・・朝廷と幕府の関係はもともと冷ややかなのである。
頼朝にすら少しも変える事が出来なかったと言う事だ。

武士は朝廷に内側から入り込む事は出来なかった。
しかし頼朝の死後22年後に起こる承久の乱で
武士はその結束力で朝廷に勝つのである。
それは頼朝が生前に望んでいた事なのだろうか?
posted by KANCHI at 10:31| Comment(0) | 源頼朝の死後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月29日

源頼朝の死後の権力

源頼朝の死後 頼朝の家来達は次々と滅亡への道を辿るが
何れも滅亡させられる程の理由が明確でなく
頼朝を愛する者としては心にモヤモヤしたものが残る。
本心を打ち明けるなら・・・・
一連の滅亡事件は権力維持を目論んだ北条一族の
「いちゃもん付けて先に言った者勝ち」で起こした事件である。

頼家の乳母であった梶原景時を鎌倉から追放し滅亡させたが
たまたま梶原景時が嫌われ者だったから成功した様なものだ。
しかし そのきっかけを作った阿波局夫婦が疑われ、
夫 全成が頼家の呪詛を行っていたと言う理由で処刑された。
その後 頼家の乳母であり妻であり子である比企一族が滅亡。
北条の思い通りにならない頼家の先ずは外堀を埋めた様なものだ。
梶原景時、比企一族という後ろ楯を失えば頼家は北条に従うしかない。
と北条は考えたが・・・頼家は従わなかった。
手に負えない頼家を鎌倉から追放・・・伊豆修善寺に幽閉したのである。
勿論 頼家の母 政子も承知の上での事だ。
しかし北条の言う「幽閉」は いずれ「処刑」を意味している。
昔 頼朝の弟 範頼が幽閉された時もそうだった・・・
頼家を腹を痛めて産んだのは確かに政子だが
政子は頼家を抱いた事もない・・・乳を与えた事もない。
ふたりの間にあるのは「頼家が頼朝の子である」という事実だけである。

posted by KANCHI at 10:10| Comment(0) | 源頼朝の死後 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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